「ハドソン川の奇跡」という邦題を見て、監督クリントイーストウッドは何を思うのだろうか。
原題は「SULLY」。
トムハンクス扮する主役のパイロットのニックネーム。
こちらの方がシンプルで監督の想いが伝わるような気がしてならない。
邦題は監督の許可を取って名付けられるものなのか?
とどうでもいい疑問が湧いてきた。
調べてみると「ハドソン川の奇跡」という言葉は
その事故が起きた時のニューヨーク州知事が賞賛の言葉として使ったもの。
理解はできなくはないが、安易な気もするし、作品がどうも軽くなってしまう。
これは僕の勝手な意見で、何十時間も議論を行った上、決まったことであれば、スミマセン。
今年に入って洋画は9本観ているが(10月1日時点)、そのうち7本が事実を基にした作品。
あえて選んでいるつもりはないが、結果的に多い。
もしくはアメリカ映画自体がフィクション作品のネタ切れで、
こっちばかりを描いているのだろうか。
やたらヒーローものというか特撮アクション系が多い気もするし・・・(笑)。
本作もアメリカの正義と暗部を両面を捉えているように思える。
あらゆる場所でコンプライアンスとかセキュリティとか事実確認・検証とか、
人間的感覚が許されなくなっていく。
それが時代と言ってしまえば身も蓋もないが、
その浸透度と反比例するかのように人の温かみが失われる。
国民的英雄から容疑者へ移り変わるのも瞬間だ。
マスコミも正義を振りかざし、プライバシーを侵し始める。
そこに罪悪感は存在しない。
その姿を無駄な感情を入れず、あくまでも当事者の視点でクリントイーストウッドは描いていく。
前作「アメリカン・スナイパー」の時も書いたが、あえて何も言わない。
映画の結末が「答え」だと思うが、そこにあるのは「問い」だろう。
自国に対してのメッセージとも言えるのかもしれない。
ちょっとカッコつけて書いてみたが(笑)、そんなことを感じてみたり。
アメリカはいろんな事件が起きますね・・・。
この作品、意外と短い。96分。
長い映画がもっと短くていいと思うことは多いが、その逆は稀。
もっと長くてもいいくらい。もう少し観ていたかった。
クリントイーストウッド作品は僕がいわなくても、周りの人が勝手におススメするだろう。
それでいい。間違っていない。
芸術の秋。
映画を観るにもいい季節になってきた。