これからも前向きに 名大社会長ブログ

カテゴリ「名大社半生を振り返る」の記事一覧:

名大社半生を振り返る 最終回

2016年11月に丸の内から現在の伏見にオフィスを移転した。
前回の移転は後ろ向きの移転だったが、この時は前向き。
オフィスが手狭になったこととよりアクセスのいい環境を求めての移転。
広さは倍近くになった。
家賃は倍以上になった(汗)。

この前後は会社としても好調。
2年後にはオフィススペースが手狭になり、レイアウトを変更しデスクも増やした。
40名収容できるセミナールームも作ったので、ここでセミナーを開催したり、
社内の勉強会、時にはブルーシートを敷いて飲み会も行った。

丸の内時代には円頓寺に通っていたが、伏見に移ってからはこの界隈を荒らしまくった。
(悪さをしたのではありません・・・)
どちらも大好きな街。
それだけで働く喜びが生まれた。

2019年11月に会社は設立50周年を迎えた。
会社の寿命が30年といわれる中、この地区で50年事業を継続させることができた。
親会社の倒産を経験する稀有な存在である名大社。

オーナー家でもない僕が50年の節目に立てたのは感謝すべきだが、不思議な感覚もあった。
多分、これは僕しか分からない感覚。
OBの嬉しそうな顔や参加者同士の楽しそうな会話をみながら、
責任を果たした気持ちにもなった。

自分でなければ会社はもっと成長したかもしれない。
逆に会社の存在すらなかったかもしれない。
それは誰にも分からない。

2018年度までは毎年順調に業績を伸ばしてきたが、翌年は前年割れとなった。
一つは僕が掲げた新たな営業体制が機能しなかったのが原因。
ソリューション強化は僕の独りよがりの考えだった。

そして、2020年年明けから国内に広がった新型コロナウイルス感染拡大。
この影響で大幅に業績を落とした。
非常事態宣言が発令された3月はイベント中止。
大掛かりな企画を組んでいた5月も全て中止。
売上がほぼなくなった。

6月以降、イベントは再開できたものの規模は縮小。
赤字が続いた。
採用市場も冷え込んだ。

名大社は基本的に営業会社。
人が動いて売上を形成する。
雇用調整助成金の活用も限定的。
仕事がないから休ませる、というわけにはいかなかった。
業界全体の落ち込みに比べ、イベント比率の高い名大社は半端ない落ち込み。
これまでの方針が裏目に出た。

全ては社長の責任。
当然のことだった。
新しい手は大きな力にはならず、守ることが中心だった。

2020年10月末、ホテルに一人で籠り考える時間を作った。
メンバーに対し申し訳ない決断をした。
自分自身の進退も決めた。

「中継ぎ」があまり長いのもよくない。
中継ぎ投手は打たれたら交代するのはプロの世界。
それは経営の世界でも同じ。
そんな判断をした。
それから徐々に権限を委譲し今に至る。

名大社では明日、株主総会。
その後の取締役会で正式に社長退任と新社長就任が決まり、6月1日からは新体制。
僕の12年5か月の在任期間も明日で終了。

従って、この半生ブログも社長ブログも今日が最終回。
反省は山ほどしているが悔いはない。
寂しい気持ちはあるが判断は間違っていない。
社長として幸せな時間を過ごさせてもらった。

一度きりの人生なら1回くらい社長を経験したほうがいい。
今、改めてそう思うし、若手やこれからの人に大きな声でいいたい。

社員、クライアント、経営者仲間、ブレーン、全ての方に感謝。
もちろんブログを読んでくださったみなさんも。
ありがとうございました。
そして、これからの名大社にも期待して欲しい。

 

終わり。

 

会長ブログはあるのかな・・・。

名大社半生を振り返る その25

肝心なのは事業で売上を上げ利益を出すこと。
そして社員の生活を豊かにし、働きやすい環境を作ること。
それを心掛けてこの12年は仕事をしてきた。

一定年数は理想に近い環境を作ることができた。
しかし、直近の数年を見ると理想とはかけ離れた実績しか上げていない。
紛れもない事実。
決して驕ったわけでもなく自信過剰になったわけでもない。
会社は生き物。
上手くいったことが永遠に続くことはない。

名大社は採用支援、就職支援がコア事業。
それをより明確にし同業大手他社との差別化を図るためジモト色を強調。
「企業展」と慣れ親しんだ新卒イベントの名称も「ジモト就職フェア」に変えた。

それは象徴的なメッセージだが、この12年で様々なイベントを送り出した。
前社長時代は閉鎖的で他社と組むことはあり得なかった。
ノウハウが流出するリスクと捉えていた。
それは間違いなくあるだろう。
考え方として間違ってはいない。

しかし、僕は逆転の発想でそのリスクも踏まえ、積極的にアライアンスを組んだ。
スタートは名古屋商工会議所との小さな企画だったが、その後、いろんな団体と組むようになった。
名古屋証券取引所や名古屋中小企業投資育成など。

呼び捨てですみません・・・。
この後も呼び捨てで(笑)。

同業他社とコラボ企画も取り組んだ。
楽天、アスリートプランニング、デアイバ・・・。
お互いの強みを発揮することでイベントとしての成果を上げた。
特定の分野に強い同業他社と東海地区に強い名大社。
その掛け算でインパクトある仕掛けができた。

2014年のディスコとのコラボイベントを僕が社内で提案した時はさすがに反発を食らった。
地元でもガチンコで競合する同業。
そこは目的を明確にして理解を求めた。
結果としては上手くハマり実績を上げることができた。

集大成は2016年から始まった中日新聞社との共同開催。
全国有数のブロック紙であり地元を代表する企業。
新聞社として新卒事業を自社で展開していた。
営業時代はよくバッティングした。
嫁さんとの出会いもそんな縁だった(笑)。

元々、名大社は中日新聞社の広告代理店。
主従の関係でいえば明確。
そこを対等な関係でアライアンスを組んだ。

就職活動が解禁する時期にリクルート、マイナビ等大手は大掛かりなイベントを運営。
名古屋でも300社規模のイベントを開催し、ナショナルクライアントも引き連れていた。
地域特化の名大社では叶わない時期が続いた。
それが中日新聞社と組んだことにより2018年2月には225社のイベントを提供することができた。
コラボ事業が功を奏したカタチとなった。

中途事業では転職フェアに留まっていたが、
社内の勉強会から2012年にエンジニアフェアが誕生した。
今も継続するイベント。

人材紹介事業は2011年よりスタート。
言い出しっぺとして最初は僕がキャリアコンサルタントとしてキャンディデイトと面談。
企業と人のマッチングを行った。
当時は社長の肩書を隠して対応していた。
最初は見よう見まね。
今では僕よりも遥かに高いレベルで面談が行われている。

継続する事業もあれば撤退した事業もある。
前にも書いた障がい者採用向けイベントは5年で撤退。
その他にも「転職ナビ」をリニューアルし、
2011年に「転職ナビFREE」としてスタートさせたが浸透しなかった。
その後、「つなご~や」という成果報酬型サービスに切り替えたが長くは続かなかった。

細かいものを含めると他にもあるだろうが・・・。
トライ&エラーを繰り返してきたが、
結局、僕はイベントに続く柱を作れなかった。
これが後に大きなマイナスとして響くことになる。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その24

昨日は56歳の誕生日。
多くの方にお祝いのメッセージを頂いた。
気づけばこんな年か・・・。

温かいお言葉、ありがとうございます。

社長になるまでの振り返りは時系列で書いていたが、
社長時代はあちこちに飛んでこちらも変則的。
日々の変化はブログにアップしてるので、ヒマな方が読んで頂ければ・・・。
この半生ブログも変則になったので、変則のまま続けます。

年々、組織もまとまりメンバーも成長してきた。
僕が何も言わなくても主体的に動いてくれるし、
僕の指示よりも的確なので、現場のことはできるだけ現場に任せることにした。

特にNEXT4と呼ばれる4名が大きく成長し活躍してくれた。
高井は「テツさんの唯一の実績はNEXT4を育てたことですね(笑)」と言っていた。
まあ、そうかもね。
口出ししないのもある意味、自分の仕事として捉えた。
物は言いようだけど。

ネットワークを広げていくと面倒なことも多いが、そこから得られる仕事も多かった。
ちょくちょくメディアで紹介されることも影響してか講演の仕事が増えた。
ラジオ番組を持ち、ここでも喋った。
(これはスポンサーとしてだけどね・・・)
大学のキャリアセンターとの信頼関係もあり、大学でのガイダンス、講演、臨時講師の依頼も増えた。

がっつり授業を行う非常勤講師も今年で5年目。
どこかの党から立候補しても経歴詐称にはならない(笑)。
自分が学生に何かを教えるなんて、昔はこれっぽちも考えなかったが、
いざ登壇すると遣り甲斐も出たり・・・。

自治体や金融機関からも依頼があり、ピーク時は年40本ほど講演した。
多い時は1000名規模、遠い場所は四国・愛媛での講演も頂けた。
テキトーなことをテキトーに話すのが得意なので、
聴く方によっては「ふざけるな!」と思われるかもしれないが、
今のところ、クレームは届いていない。

自分が何屋さんか分からなくなる時もあったが、広告塔の役割として有難く依頼を受けた。
たまに専門外の依頼もあったが、基本お断りすることはなかった。
テキトーな話でも会社の信用は失くさないように努めた。
そんな形で会社に貢献したつもりだが、自分で勝手に思っているだけかもしれない。

社内環境も以前に比べれば大きく変わった。
とはいえ、ようやく一般企業に追いついただけだろう。
就業規則から始まり、新たな経営理念を掲げ、クレドの作成も全員で行った。
賃金体系や人事評価制度も見直した。

CRMも導入し営業管理の見える化も行った。
当初はセールスフォースを言われるがまま使用していたが、
徐々に社内でも運用できるようになり、今は別のCRMをクラウド上で管理。
若手にとっては当たり前の業務フローだが、10年前と比較すると雲泥の差。
それも内務の神谷はじめ優秀なメンバーがPDCAを回し続けてくれたおかげ。

僕は所詮営業マン。
外部に対して仕掛けや交渉はするが、内部の細かいことは得意ではない。
思い切って任せた方がいいし、知ったかぶりをしたところでボロが出るだけ。
そうした積み重ねで社内体制が出来上がり、今も常に見直しが行われている。

社内体制で忘れてならないことをもう一つ。
2014年9月よりスタッフブログを始めた。
大半のメンバーは嫌がり、スタート時は反発を食らった。

一人ひとりの顔を見せること、
世の中に関心を持ち表現力を身に付けること、
社内のコミュニケーションを活発にすることを目的としたが、
最初はあまり理解されなかった。
僕の趣味の範疇と捉えていた者が多かった。

月に1番”いいね!”を獲得したメンバーにブログ賞として朝礼で表彰。
ヤル気を喚起した。
クライアントからの反響もあり評価も高かった。
力を入れる者とそうでない者が明確になるのもこのブログ。
それも面白かった。

ただ同じことを繰り返すだけではマンネリ化するし惰性にもなる。
次のアクションのために今年3月でスタッフブログは休止。
今後の展開は僕自身が楽しみにしておきたい。

さて、次回は本業の振り返りかな。
だんだん締め方が難しくなってきた(笑)。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その23

本来、このブログは来週月曜日。
半生ブログは月末が最終回なので、計算するとあと2回。
どうしようもなく頭の回転が悪いが、とてもじゃないが、あと2回では終わらない。
え~っと、あれとこれと書くと何とか4回で終わる?
というわけで今回より週2回アップします(汗)。

「出会いは人生の宝」
これはユニー創業者故西川俊男氏主宰の経営塾「西川塾」で教えて頂いた言葉。
今も大切にする言葉だが、まさに僕はこの通り。

営業時代はクライアントや小さなコミュニティで出会いがあったが、
経営者になってからは多くの出会いが僕の宝となった。
社長時代を振り返っても大した実績は残していない気もするが、
自ら求めていった出会いは会社にとっても大きな財産なはず。

僕は食べ物も飲み物も好き嫌いはない。
人においても同様。
好き嫌いも得意不得意もない。
誰とでも普通にお付き合いすることができる。
その分、強烈な個性もなければインパクトもない。

以前、沢木耕太郎氏が山田洋次監督の作品について書いていた。
「個性がないのが個性」
ある意味、僕もそれに近い。
そうはいってもお互い合わない人はいるので、そんな人は自然淘汰された。

自ら出向いたのは経営者関係ばかりではなく、別の方面にも頻繁に顔を出した。
2010年、2011年はtwitterやfacebookなどのSNSが一気に伸びた時期。
そんなコミュニティやイベントがあると興味本位で顔を出した。

名大社の名刺を出すと結構、驚かれた。
「えっ、そんな立派な人かこんな会に来るの?」
そんな思われ方だった。

有難いことに会社の認知度はあったため、どこかの偉い社長さんと思われていた。
「いえいえ、ただのハナタレ社長です」
と真実を伝えても、
「いやいや、また謙遜して・・・」
と相手が勝手に勘違いしていた。
世間とのギャップに苦しむこともあったが、上手く利用すればいいことだった。

2010年度はわずかな赤字だったが、そこからは景気回復も伴い順調に業績を伸ばすことができた。
11年度以降は8年間は平均118%の売上成長率を維持。
過去の大きな落ち込みも乗り越えることができた。

それは僕自身の力はほとんどなく全員の力で成し遂げたこと。
グッドサイクルが回るとはそんな状況。
目の前の行動だけでは分からないが、後から冷静に判断するとそんなことがいえる。

僕はテキトーなようにみえて意外と厳しい。
規律やルールを重んじ、それを外すと許さない面もある。
今の時代にはそぐわないが、それが一定の緊張感を生み組織も上手く機能した。
緩い時は緩いが、基本は規律を大切にした。

2012年あたりからは賞与時期や年度末には一人1時間ほど個人面談も実施。
それくらいの規模感だからこそ可能だった。

その時期に前社長からの解任要求があり、以前の役員が会社に乗り込んできたが、
その頃は自分でも自信がつき始めていた。
何事もなく終えることができた。

会社も順調に伸びてきたので、2013年には久々に社員旅行に行った。
全員で2泊3日の沖縄。
海外旅行と比較すればショボいが、全員で楽しい時間を過ごすことができたのが嬉しかった。
それ以降、1年おきに九州(大分、福岡)、九州(宮崎、鹿児島)にも出掛けた。
その間は研修旅行として近江八幡や豊橋にも出掛けた。
それも僕の知り合いに学びを提供してもらう場。
出会いは人生の宝だね。

社長就任2年目からの忘年会は社員だけでなくブレーンや媒体者を招いて開催。
年々、規模も大きくなった。
賑やかな場を作り全員で盛り上げることもできた。

そんな機会が今は全くない。
それは寂しいことだけど。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その22

社長になるまでの一年間は以前にもブログに書いているので、かなり端折った。
2009年12月(対外的には2010年5月)に僕は社長に就任した。
副社長の期間は1ヶ月ちょっと。
経営者の準備をほとんどしないまま僕は社長になった。
そんな経験があったので、今度の高井との代表交代はかなり時間を設けたつもり。

右も左も分からないトップ。
それでも前に進むしか道はなかった。
2010年の正月はこれまでの正月とは一変。
会社のこれからばかりを考えていた。

まず行ったのはオフィスの移転。
2010年3月、設立以来ずっとオフィスを構えていた栄、中日ビルから丸の内へ移った。
家賃は1/3。
赤字が続く中、固定費をできるだけ下げなければならない。

都落ち感は拭えないが、新築のオフィスビル。
それも最上階。
メンバーのモチベーションはむしろ上がった。

オフィス移転を機にブログもスタート。
自分の想いを自ら発信しようと試みた。
最初はfc2のブログ機能を使った。
継続することを目的としていくつかのルールも設けた。
せっかくなので第1回目のブログをアップ。
「事務所移転。そして、ブログスタート!」

気がつけばこのブログも12年2か月。
書いた本数は2,900本強。
文字にしてざっと2,465,000文字。
いやあ~、結構、頑張ったね(笑)。

事業は大きくは変えられない。
リーマンショックの影響は大きく、事業を成長させるには時間が掛かる。
まずは組織の安定化。
これは体制が変わり、残るべくして残ったメンバーばかり。
一体感は増した。

そして、僕は積極的に外に出た。
可能な限り人に会いに行った。
以前、このシリーズで登場した怪しい名簿屋さんがちゃんとした企業に変わっていたので、
各地域の同業他社と接点を持つことができた。

社外取締役を務める株式会社パフともこの時に出会った。
(毎日やり取りする釘崎会長ね・・・)。
今、会長を任されるFネット(ふるさと就職応援ネットワーク)も2010年5月に加盟。

新卒ナビのサーバーがダウンしたり、朝日新聞から代理店契約解除の打診があったり、
大変なことは続いたが、深刻になることはなかった。
元来、楽天的な性格かもしれない。
なんとかなるだろうと思っていた。

苦労はあったが、結果的になんかとなった。
その年に立ち上げた障がい者採用向けのイベントは5年で撤退したが、
各媒体社の信頼回復には大きく貢献してくれた。

新たな試みを行った。
思い切って新卒ナビの標準プランをFREE(無料化)したり、
パートナーと一緒に内定塾を開講したり・・・。
流行りに乗った感はあるが、チャレンジすることに抵抗はなかった。

経営者が集まる団体にも自ら参加した。
こういう団体は誘われてやむを得ず入会するパターンが多いが、自ら出向いた。
ロータリークラブ(前社長から勧められたこともあるが)、
出身大学の経営者の会、ユニー創業者の経営塾、商工会議所系経営塾など、
社長就任後2~3年は時間を許す限り関係性を作った。

訳が分からず入ったものの、10年経つと会長、副会長、
副事務局長、幹事、委員長など任されるようになった。
幸か不幸か、あちこちから責任が舞い込んできた。
しかし、それは僕には大きな財産。

こうした活動を通し人間関係が広がり、雲の上のような存在と対等に話して頂ける場もできた。
続く・・・。

名大社半生を振り返る その21

半生もすでに20回を経過した。
ありがたいことに喜んで読んでくれる方もいて、多くの感想も頂き嬉しかったり・・・。
今の若いメンバーが半生ブログを読んだところでどう感じるかは分からない。
ただの昔の話と思うだけかもしれない。
それはそれで仕方がない。

しかし、これも主観的にみた名大社の歴史。
違う視点で見れば全く違う会社像になるかもしれない。
過去は自分の解釈で事実も大きく変わる。

現段階で働き始め19年が経過しているが、この社会人生活は客観的に見てどうなんだろうか。
一般的なサラリーマン人生なのか、波乱に満ちた人生なのか。
今思えば良くも悪くも中小企業で多くの経験をさせてもらっているが、所詮東海圏内の話。
全国を飛び回ってとか、海外と交渉を繰り返してとかは無縁。
小さな世界であるのは間違いない。
その小さな世界でしか経験できないこともあったり・・・。

やばい、今月中にこのシリーズを終えなきゃいけないが、まだ10年以上残っている。
本来なら今回含め、あと4回。
ちょっとムリかも・・・。
月曜のアップだけでは終わりそうにない。

いかん、前置きが長くなった。

2008年のリーマンショックで業績が大きく崩れていった。
それはバブル崩壊ともネットバブル崩壊とも比べようにならな過去見たこともない落ち込み。
僕は独りぼっちで営業をする日々。
会社を辞めようと思い、人材紹介会社に登録するものの、らしい会社には出会えない。

仕事へのモチベーションも上がらない僕に叱ってくれた大切なクライアントもあった。
「役員降格中の話」というブログでも書いたが、
こういった有難い方のおかげで会社に留まることができた。
以前、「山田さんは人間性だけだね」と言われたように、
僕の存在価値はそれだけだったかもしれない。

気持ちを切り替え、みるみる売上が下がっていく会社に正面から向き合うようになった。
一方で会社はギスギスした状態。
僕の代わりに役員に昇格した後輩は部下を怒鳴りつけ罵倒し、
会社としては理想の上司だった。

蚊帳の外にいた僕は冷めた目で見ながら、黙々と自分の仕事をこなしていた。
叱られもせず、褒められもしない。
「今はやるべきをやろう」
孤独ではあったが、そんな気持ちだった。
会社を見限る社員も増え退職者は続出。
会社の雰囲気はどんどん悪くなっていった。

ちょうどこの頃からマラソンを始めた。
長距離を走ることなんて好きでも何でもなかったが、
自分と向き合い、自分と戦うにはいい材料だった。

今一つ元気のない僕を誘ってくれたのはビジネススクールの仲間。
それにより自分に向き合えるようになった。

それからのことは以前のブログに書いた通り。
「社長になるまでのこと(前編)」
「社長になるまでのこと(後編)」
2007年度から2009年度までの2年で売上は15%までに減った。
15%減ではない。
リーマンショックの年に55%まで下がり、その翌年はさらに30%まで下がった。

過去経験したことのない赤字額。
名大社のかつての栄光はどこに・・・。
大げさにいえばそんな状況。
名大社は終わったと思った関係者は多かった。

そんな時に僕は社長になった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その20

2006年5月末、僕は40歳で取締役に就任した。
兼務役員なので扱いは社員のままだが、肩書は取締役。
どんな責任を負っていくのか、
どう変わっていくのか見えないままだったが、ずしりと重さは感じた。

僕らの提供する求人サービスもネットが中心。
新卒サイトは運営していたが、転職サイトのスタートは2006年。
これまでのベンダーではなく大手インフラ系のシステム会社と開発を行いサービスを提供し始めた。
リクナビNEXT、エン転職、マイナビ転職らの大手同業他社からは大きく遅れての立上げ。

当時、リクナビNEXTはYahooと提携していた。
その優位性を社長に説明し同じような検索エンジンはないかと聞かれ、
「グーグルがトップです」と答えると、
「うちはグーグルと提携しよう。テツ、交渉してこい」と平然と言われた。
「無理です」という回答は仕事から逃げているとしか受け取られなかった。

システム会社とのトラブルが続きその対応に追われた。
価格帯の設定やプロモーションもほぼ任されていたが、計画通りに販売も進まなかった。
取締役としての力不足と受け止められ、徐々に自分でも感じるようになった。

営業のクライアントからのクレームも僕が対応させられた。
上手く処理できないと能力不足と罵倒された。

この頃はあまりにも忙しかったので、名古屋市内のクライアントのみ担当し、
市外や岐阜県のクライアントは別の営業に任せていた。
先輩に任せていたクライアントはよかったが、
後輩に任せていたクライアントは見事に売上が減った。
売上は僕に計上されるためモチベーションの低下はあったと思うが、
毎年当然のように依頼頂いた仕事がなくなっていった。

制作企画部門、ネット事業、大学関連、採用担当、
そして営業と多くの業務を掛け持ちしていたため、綻びも出た。
全体を掌握する余裕も力量もなかった。
積もり積もったトップとの考え方の違いも少なからず影響した。

以前、「役員降格の話」というブログを書いた。
実力不足の一言でいいだろう。
僕は取締役として失格の烙印を押された。

1期2年のため、最初の一年は取締役として機能したが、2年目は肩書のみ。
ネット事業の責任者を外され、部門のマネージャーを外され、採用担当も外され、
気づいた時には社長直轄の一人営業になっていた。

上司は社長、部下はなし。
2008年の株主総会で正式に取締役を辞任すると
特別営業職という肩書が与えられ、ひたすら営業する日々を送った。

他に任せていたクライアントは幸い僕に戻ってきた。
「山田さんが担当ならまたお願いするよ」
そんなクライアントの存在がどん底に落ちた僕を救ってくれた。

それでも時間はあるので、飛び込み営業も行った。
見栄もプライドも関係なかった。
社内での存在感はほぼ消えていた。

さすがに会社に失望し真剣に退職を考え、人材紹介会社に登録。
「もう名大社を卒業しよう」
そんな時に起きたのがリーマンショックだった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その19

ビジネススクールへの通学は僕に大きな刺激を与えた。
名古屋校は2005年で開校3年目。
参加している連中は意識が高く能力的にも優れていた。

自分でそこそこできると思っていた僕はその能力の差に愕然とした。
完全に「井の中の蛙」だった。
自分のいる世界がいかに小さいかを痛感。
何もかも劣っている気がして危機感が増した。

却ってそれがよかった。
もし、ビジネススクールに通っていなければ今の僕は存在しなかった。
素晴らしい友人にも出会えたし、ここでの付き合いが自分の支えになった。
今もオンとオフの師匠でもある講師と出会ったのも2005年。

志の高い仲間と付き合い自分の未熟さを実感し机にも向かった。
それは仕事にもいい影響を与えた。
毎年のように僕が選考したメンバーが入社するのも励みになった。
仕事が好循環で回ったため、会社に対してのネガティブな要素も薄らいできた。

会社は2005年に名大社火曜日という子会社を設立。
非常勤の女性の営業部隊で転職フェアなど自社メディアを販売。
それほど知識やノウハウがなくても売れたので大きな戦力にもなった。

メンバーは火曜日のみ出勤。
ほぼ業務委託に近い雇用契約で歩合制。
会社として固定費のリスクは少なかった。
社長は名大社水曜日、木曜日、金曜日と作ることで営業チャネルを増やすことを目論んだ。

一時期は盛り上げてくれた存在だったが、
最後は僕が解散させることになってしまうが・・・。

この時期は業績的にも好調で、南端の会、北端の会という慰安旅行が企画された。
1年に2回メンバーをチョイスし、沖縄と北海道に3泊4日の旅行に出掛けた。
僕は沖縄の1組目で贅沢な経験もさせてもらった。
全額会社持ちでホテルもブセナテラスという高級リゾート。
利益還元も積極的に行われた時期で、ほぼ全員に順番が回ってきた。

オンもオフも多忙。
罪滅ぼし的に家族で毎年夏に沖縄旅行、冬に温泉旅行に出掛けた。
点数稼ぎをして何とか平和を維持。
あちこちに気を遣う日々だったが、充実もしていた。

2006年4月には制作企画部門の責任者を任された。
5月末の株主総会で取締役の就任も決まった。
「取締役待遇次長」というヘンテコな役職は名刺から消えた。
40歳になったばかりで史上最年少の役員。

サラリーマン人生でピークを迎えたが、長くは続かなかった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その18

2004年、2005年はモーレツに忙しかった。
2005年には愛知万博もあったため、その前後は景気も上向き。
会社の業績も上がっていた。

僕の営業マネージャーとしての評価はイマイチだったが、他の業務はどんどん押し寄せてきた。
そんな時期にCDA(キャリアカウンセラー)の講座に通い、資格取得を目指し勉強をした。

小さい子供を2人抱える嫁さん。
仕事ばかりで家庭を任せきりで、休日も勉強といって外出する旦那。
それだけならまだ許してくれるだろう。
仕事を終わってからの飲み会。
勉強会が終わってからの飲み会。

嫁さんは怒り心頭。
「なぜ分かってくれない?」
僕は自分を正当化したが、今の時代なら三行半だろうね。
やっぱり、スミマセン・・・。

新卒市場も再び活況になってきた。
リクルートなど大手同業他社は新たなイベントを打ち出した。
負けてはいられない。
対抗する大手向きの企画を立て、それまでお付き合いのなかった企業にも積極的にアプローチした。

ご縁のなかった地元大手企業と口座を持ったのもこの頃。
ここでは自慢をさせてもらうが、地場を代表する大手企業のかなりの割合を僕が開拓をした。
イベントも成果を出した。

2004年10月に取締役待遇次長というヘンテコな役職をもらった。
懇意にするクライアントから
「山田さん、それって役員じゃないよね?」
「そうですね」
「執行役員なの?」
「違いますね」
「じゃあ、何?」
「取締役に近い待遇ってことじゃないですか?」
「それで次長なの?」
「そうです」
「ギャハハハ」

自分でもよく分からなかったが、責任が重くなったのは事実。
書きたいことは他にもあるが、半生が進まないので細かいことは省く。
Pマークも無事に取得したとか・・・。

昼休憩は15分ほど。
当時、中日ビルの地下に「らーめん亭」というお値打ちな中華料理屋さんがあった。
確かチャーハンも天津飯も400円くらい。
天津飯はあっという間に出てくる。
そこでサクッと食べ会社に戻ることが多かった。

2005年1月にCDAも無事に合格。
大して勉強ができない割に目覚めてしまった。
4月からはビジネススクール(グロービス)にも通い始めた。

世間は盛り上がっていた2005年だが、会社は壮絶な年。
全社員の1/3が退職をした。
それも重要な戦力を失くした。

以前僕の部下だったTはその後、営業部門のエースとしてチーム全体で会社を引っ張っていた。
そのTが退職をした。
お互い別のチームを持っていた時も頻繁に飲みに行き、未来を語り合った。

そのTが退職。
その他信頼していたメンバーも辞めた。
「山田さんのことは尊敬しているし好きだけど、会社には付いていけません・・・」
そんなことも言われた。
かなり辛かった。

それが勉強に向かわせた理由の一つ。
会社は僕のビジネススクールへの通学を知り、受講料は会社持ちでいいと言ってくれた。
僕はそれを断った。
反発心があったのだろうか。

今思えば、とても勿体ない。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その17

あれもこれも手を出すとロクなことがないのかもしれない。
2003年、2004年も社内も社外も変化が激しかった。

人材業界も新興勢力が力をつけてきた。
今はなきワイキューブが業界の話題になっていた。
名大社とのパートナー契約の話も上がったりもした。
条件はまとまらなかったが、存在はかなり気になっていた。

生意気な学生モニターにも言われた。
「名大社は古いっすね。これからはワイキューブじゃないですか」
若い連中にはそんなふうに映っていた。
確かベンチャーオンラインという会社もあったが、いつの間にか消えていた。

リクルートはナゴヤドームで派手にイベントを開催。
残念ながら名大社の大型イベントの倍以上のスケール。
どこも自社の存在感をモーレツに出していた。

僕のチームもメンバーが変わり、当時、勢いのあったIが僕の部下になった。
以前からIは僕によく言っていた。
「山田さん、独立しないんですか?。山田さんならやれると思いますよ」
それが理由ではないが、結構、可愛がった。

若いメンバー中心で何かを起こしたいという気概もあり、会社に対し提案もした。
そんな姿勢は僕も大切だと思ったが、それが裏目に出た。
会社への反発と受け取られた。

「テツはやっぱり若手を育てられない。」
勝手な行動をさせたことの責任を取り営業の部下を外された。
しばらくしてIを含め有望な若手が退職。
僕より上の部長級のメンバーも管理職失格の烙印を押され降格にもなった。
相変わらず激しい人事だった。

僕は自分が営業をしながら企画チームのデスクになった。
この頃から個人情報についてうるさく言われだした。
当時は名簿屋さんと呼ばれるブレーンと付き合っていた。
ルールに則った上での取引なので問題はないがグレーな面もあった。
その時、お付き合いした人も僕が社長になるタイミングで再会。
今は真っ当なビジネスでいいパートナー(笑)。

大手同業他社はプライバシーマーク(Pマーク)を所有していた。
世間的にもそれが求められるような時期。
名大社もPマークが必要な時期に迫られてきた。

感覚的な仕事は得意だが、こういった論理展開だけを積み重ねる仕事は苦手な分野。
しかし、そんな役割も僕に回ってきた。

改めて過去を振り返るといいように会社に利用されていないか?

机の上の書類の山積み。
シュレッダーはなく何でもゴミ箱にポイ。
個人情報って大事なの?
そんな会社だった。

とても自社だけで賄うことはできず、コンサルと一緒にゼロから組み立てた。
いい経験だったが、とても面倒な仕事。
書類を完成させ社内体制と整え、審査申請をする段階でミスが起こった。
直接僕が原因ではないが、責任者として叱責を受けた。

いやいや僕は企画担当ですよ。
と言いたいが、それも僕の責任だった。
なんだか叱責ばかり受けている。

それが2004年。
その年にCDA(キャリアカウンセラー)の資格のために受講がスタート。
机に向かい勉強するのは久しぶり。
自分の昂る気持ちとは裏腹に家庭内は険悪なムードだった。

続く・・・。