これからも前向きに 名大社会長ブログ

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名大社半生を振り返る その16

21世紀に入った日本経済は混とんとしていた。
2002年はカルロス・ゴーン社長が日産で大鉈を振っていた。
失業率は5.6%と今とは比較にならない高水準。
友人の広告会社も倒産。

名大社の業績も上がったり下がったり。
僕は中間管理職だったものの、会社の経営状況さほど知らなかった。
あまり開示されていないのが理由たが、昔の資料を確認すると健全であったのは間違いない。

業績が下がった原因も明らか。
売上の大きな割合を占めていた新聞広告から自社媒体に大きくシフト。
代理店と自社媒体とでは利益構造が異なる。

見込みが外れた場合、自社媒体はリスクになるが、
計画通りに進捗すれば効率のいいビジネスにもなる。
たとえ売上が減少しても利益が増加する場合も多い。
会社も切り替わる段階で、代理店業務を減らしていった。

当時、自社の採用は経営陣がその都度対応していた。
そのやり方は僕から見れば今一つ。
採用支援をしている会社の割に自社採用には力を入れていなかった。

そんな状況を傍目で見ながら、
「オレだったら、もっと上手くやるのに・・・」
なんて、またまた図に乗ったことを考えていた。

そして、新卒採用をやらしてほしいと自ら手を挙げた。
新卒ナビ「名大社DeSu」を有効活用するためにも自分で組み立てる方が手っ取り早い。
そんな思いもあった。

会社説明会から筆記試験、小論文、面接とスケジュールを組み、段取りした。
面接も一次、二次は担当。

僕が担当になって初めて採用したのが、自称名大社のエース奥田くん。
今もザ・名大社的な存在感を社内外で醸し出している。
今でもヤツの面接は覚えている。

一次面接の際、奥田くんは学生らしくない髪型をしていた。
今なら完全な圧迫面接だが、僕は彼にこういった。
「よくそんな髪型で面接に来れるな。ふざけてるのか?」
確かそんなような言葉だった。

しどろもどろになりながらも真面目に受け答えする態度がよかった。
二次面接でサッパリとした髪型で登場し好印象を与えた。
そして、いつの間にか内定を獲得。

それはともかく採用担当を任された数年は自分勝手な面接をしていた。
とんちんかんな答えをいう学生に突っ込んで、「みん就」にボロクソ書かれたこともあった。
変なことは言っていないが誤解を招くので、それ以降は気を付けるようになった。
今はとても優しい面接官ですよ(笑)。

今、名大社の幹部となっている重野や神谷、二村、不破も僕が採用した優秀な人材。
見る目あるよね・・・。

また、インターネット事業の責任者として営業面はもちろんのことコンテンツ(編集ページ)も担当。
書店や百貨店、紳士服量販店と組んでコンテンツを制作し、学生モニターを募り情報を集めていた。
まだSNSのない時代、学生と座談会を行いそれを記事にしたり、
日記を書いてもらいナビに掲載していた。

そんな学生と飲みに行ったりした時期。
当時のモニターが立派な社会人なり、つい最近も僕に直接仕事の依頼があったり・・・。
ありがたいご縁だね。

自社の採用だけでなく直接学生と関わることも増えた。
当たり前のように就職相談も受けるようになった。
持論をかざしていたが本当にそれが正しいか分からない。
キャリアカウンセラーの資格を取得しようと思ったのもこの頃かも・・・。

いかん、時間がなかなか進まないし、ブログも長い。
もっとスピード上げないと半生ブログはいつまでも終わらない。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その15

新卒ナビ「名大社DeSu」は無事にオープンしたものの、
後発でもあり社内的なリテラシー不足もあり、販売は伸び悩んでいた。
「東海地区No.1サイト」と自らうたっていたものの、
東海地区でサイトを運営していたのは名大社だけだから当たり前。

リクナビ、マイナビとは大きな差があり、
クライアントにも学生にも情報量不足と捉えられていた。
大学のキャリアセンターにアピールし、
応援してくれるものの「せめて200社は掲載してください」
と企業数の少なさは指摘された。

ナビは誰でも全てが見えるので比較が簡単。
営業もそれを言い訳にして契約できない。
僕は「ふざけるな。最初はゼロからスタートだろ。」と憤っていた。
「自分と同じ営業が10人いたら、トップの掲載数になるじゃないか。」
と真剣に思っていた。
驕った表現と誤解されるかもしれないが・・・。

お付き合い頂いたクライアントも中小企業が中心。
社内インフラが整っていない企業も多かった。
エントリー学生のリストを紙で持参するという今では考えられないサービスもあった。
学生も電話回線でネットが繋がっていた時代だしね。
何とかネット事業の売上をアップさせようと懸命だった。

営業、マネージャー、ネット事業責任者として激務が続いた。
それが21世紀を迎えた年。
そんな日々だったので、嫁さんは不満が溜まっていた。
第二子を妊娠したこともあり、家庭内は常にイライラした状態。

それでも11月に無事に息子が誕生。
本当にスミマセン。
反省しています。

部下の件では叩かれていたものの、個人的な信頼は回復。
女性の部下は結局、退職し責任も感じたが・・・。
社長が懇意にする企業の営業も任されたり、外交も知らず知らずのうちに増えてきた。

2001年3月に来訪があった。
仙台、新潟、金沢、広島の人材情報会社の社長がいきなり訪ねてきたのだ。
社長と面談を目的としていたようだが、僕がその対応をさせられた。

立場的には失礼にあたるが、当時、名大社は同業者には閉鎖的な会社。
協業や提携を求められることもあったが、全て断っていた。
今回の訪問も一緒に地域を盛り上げようという主旨。
僕は大いに興味を持ったが、社長も常務も何ら関心を示さなかった。

その後、広島の有名人とは何故かお付き合いさせてもらったが、その他の方とはそれっきり。
しかし、この時の出会いが社長になってから生きてくる。
9年後、ふるさと就職応援ネットワークに入会するが、来社された方が中心メンバー。

そのあたりのことは改めて・・・。
世の中はそんな偶然でできている。

この頃からプレゼンする場が増えパワポを使うようになった。
社内でのキックオフや大学での講演、クライアントへの提案書作成。
らしい企画書を作るためにマーケティングやロジカルシンキングを勉強し始めた時期。

少し前に仲のいい採用担当に言われたこともあった。
僕は提案力や企画力に自信を持っていたのだが、その担当はあっけなく言った。
「山田さんの営業力は人間性だけだね・・・」
「いやいや、違うでしょ?」
「それしかないと思うよ。」

そうなのか・・・。
褒められたようで、けなされたようで何ともいえない気持ち。
いずれにせよ、もっと能力を高めなければならない。
35歳になり気づくのは遅すぎるが、そんな時期でもあった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その14

2000年に入った。
世の中が大きく変化していく時期。
インターネットという言葉が溢れ、あちこちに新たなビジネスが立ち上がっていた。

名大社も遅まきながらそんな時期を迎えていた。
僕はチームの低迷から社長や常務から叱責を受けることはしばしば。
有能だったTが自分でチームを持ち、高井もTの部下となった。

僕は女性ばかりの部下を抱えるチームのデスク。
成績がイマイチで叱責を受けるのは仕方ないとして、
体調不良で休んだ時もデスクとしての指導力のなさを指摘された。
身勝手だとか薄情だとか以前の社長の発言ではないが、そんなことも言われていた。

当時、人事の発表は時期になると内示は一切なく掲示板に張り出された。
誰もが4月1日の発表を戦々恐々としていた。
それも今とは大きく異なる点。

昇進も異動も何も打診はない。
「はい、今日、夕方、席移動!」
そんな感じだった。

僕は3月末の幹部研修会で未熟さを罵倒されながらも、
インターネット委員会の責任者に任命された。

その年の11月に新卒向け就職サイト「名大社DeSu」の公開が決定。
それに伴いシステム会社とのサイト構築や営業方針が決まっていった。
会社にはまだパソコンはほとんどなかった。
インターネットもこれをきっかけにようやく繋げられた。

今のように一人一台の時代ではない。
会社に数台しかなかった。
それでインターネットサービスを立ち上げようというから、今思えば恐ろしい。

当時、僕はネット関連、eビジネス関連の本を読み漁っていた。
世間的には平均レベルだが、社内では相当の知識の持ち主と思われていた。
というよりも思わせていた。

初めてクライアントとメールの送受信をした時は感動的で喜びを日記にも書いていた。
そんなレベルなので、システム会社との連携も社内への浸透も相当苦労した。
あちこちでぶつかったし、
委員会内であまりにも出来の悪い先輩を外すこともあった。

中途市場も徐々に回復し転職フェアの契約も伸びた。
時期によっては枠数に収まらずお断りもした。
同時に相変わらず朝日新聞、毎日新聞の企画紙面も売っていた。

ネット事業の責任者とはいえ、日中は営業が中心。
モーレツに忙しかった。
その年の前半はそれでも仕事を終えると飲みに出掛け、
酔っ払い電車を乗り過ごすことも多かった。
(今も変わりません・・・汗)
嫁さんにはかなりヒンシュクを買っていた。

後半はあまりの忙しさに飲みにも行けなかった。
1か月以上一度も行かない時期もあった。
(コロナでもないのに・・・)

会社の鍵を閉めて帰る日も多かった。
2000年秋に東海豪雨もあり、何かと激しい年。

11月にオープンを迎える「名大社DeSu」。
販売状況は今一つ。
これまで営業を支えてきたベテラン幹部も全く売れない。
年齢も役職も下の僕がクライアントに同行し提案することもあった。
自分自身の契約状況も芳しくなかったが、ここは責任者として意地を見せるしかなかった。

11月のオープンにはトップの契約数を持ってくることができた。
11月1日は午前3時まで会社に残り、オープンに立ち会った。
ちょっとしたトラブルはあったが無事に開設。
担当役員と社内で一杯だけビールで乾杯をした。

そんな立場なので、大学へのサイトPRも僕が担当。
この頃から大学での講演も少しずつ任されるようになった。
大変な年だったが、多くを学んだ一年でもあった。

相変わらず浮き沈みの激しい生活。
アメとムチを最大限に受けていた。

年末の社員総会ではいつも頂く賞は受賞したが、予期せぬ賞も頂いた。
特別功労賞という今までにない賞。
素直に嬉しかった。

ただこれは僕が一人でもらったのではなく、
共にインターネット委員会でハードにこなしてきた仲間がいたから。
特に奥井さん(先日雇用延長を終えた先輩)と制作チーフのY君の貢献度は大きかった。
年明けの3人でお祝いをした。
足が出た気もするが・・・。

年末の日記にはこんなことが綴られている。

入社して約12年、一番真摯に仕事に取り組んだ年だったかもしれない。
特に会社に対する責任、自己の果たすべき役割を真剣に考えた一年だった。

続く・・・。

ちょっと今回、長かったね。

名大社半生を振り返る その13

「テツ、明日、辞表を持ってこい!」
「お前はエゴイストだ。会社のことを全然考えていない!!」
社長からの強烈な言葉が続いた。

始めのうちは先輩も後輩も庇ってくれていた。
「ヤマちゃんは頑張ってますよ。みんなのためにやってますよ」
「お前は何も分かっていない。こいつは自分のことしか考えていないんだ!」

社長の迫力に押され、誰も反論できなくなった。
次第に
「そうですね。テツは自分勝手ですね・・・」
手のひらを反すような言葉に変わった。

まさにサンドバック状態。
自分なりの抵抗はみせるものの、完全否定されボコボコ。
社長としては1年以上前から僕の言動に不満を抱いていたのだろう。
溜まっていたものが爆発した。

ボロカスにいわれ、ただ酒を飲むしかなかった。
気がついた時に社長宅には社長と僕だけ。
途中からの記憶はない。
他のメンバーはいつの間にか消えていた。

あれだけ激しく罵倒されたのは初めて。
日記を読み返すと最後は握手をして別れたと書かれているが、
僕はずっと追い出されたと思っていた。

深夜1時は回っていただろう。
翌朝は酷い二日酔い。
体調も良くなかったが、気持ちも落ち込んでいた。

それでも普通に出社。辞表は持たずに。
僕が普段通り出社したので、同席した役員や先輩は驚いていた。
さすがに休むと思っていたようだ。

数日後、社長と一緒に罵倒していた役員も気にしていたのだろう。
珍しくフォローがあった。
その後、社長からお咎めはなかったが、鼻をへし折られたことは事実。

確かに調子に乗っていた面もあり、この夜の出来事はいい反省材料にもなった。
それにしても言いすぎだと思うけど・・・。
そして断固として言いたい。
エゴイストではないと・・・。

不況期であってもノルマに追われ仕事は忙しかった。
個人としては良かったが部下の成績がイマイチだったり、
部下がクライアントとトラブルを起こしたりと
上司としてマネジメントの難しさを感じていた。

頻繁に社長や役員から叱責を受けた。
唯一の救いは娘の存在だった。
当時の日記には娘への溺愛ぶりが綴られている。

今は影も形もないが、2歳の頃はよく懐いてくれた。
起きている時間に帰宅すると走って抱きついてきた。
週末のひと時に癒され、幸せを噛みしめていた。
仕事の苦労も吹き飛んだ。

家庭では何もしないダメ夫に嫁さんは不満を持っていたはず。
帰りは仕事で遅いか、飲んで遅いか、週末も仕事を持ち込んでいた。
この頃からそれが常態化していった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その12

環境が変わると期待したが、誰しも変わらないことは分かるだろう。
今も名大社だし・・・。
当たり前の話か(笑)。

イケメンU氏の会社から僕は採用とも不採用ともいわれていない。
早ければ年内に返事を出すと聞いていたが、
年が明けても一向に連絡はなかった。

しびれを切らして本社に電話。
副社長が対応してくれたが、
「山田さんは名古屋支社長と相談してくれ。」という回答だった。

後日、名古屋支社長との面談では
「よくうちのことを見てから判断してください。」
というOKともそうでないとも受取れる内容。

そうこうするうちに僕はこの会社にいろいろと提案し仕事を受注。
かなり大きな新規契約となった。
連日、深夜2時、3時まで企画書を書いていた。
営業部長が契約の経緯を聞いてきたが、知り合いからの紹介と適当にごまかした。

転職活動は時間と共にうやむやになり、それまで。
そこは名大社以上にハードワークだったし・・・。
他の会社を受けることはなかった。

99年は国内全体が不況で失業率も5%を超えた。
同業界でも廃業とかリストラが行われた時期。
10年後、さらに酷いリーマンショックが起きるが、当時もかなり厳しい環境。

親会社であった大阪の大有社もこの年に自己破産。
世間的には名大社も連鎖倒産するのではと思われていたし、
取引停止になったクライアントもあったが、何ら影響は受けなかった。

そこは社長の手腕。
いずれこうなることを予測し、親会社との資本関係を数年前から解除していた。
風評被害にあったことに対してかなり憤っていた。
そりゃ、怒るよね。

その決断があったからこそ、今も会社が存在する。
改めて敬意を表します。

大型受注はあったものの、僕自身も会社自体もこの不況下で厳しかった。
チームも僕の成績も下がっていた。

新卒イベントもリクルートはナゴヤドームで大々的なイベントを行い差も開いていた。
また、時代も移り変わる頃。
インターネットが普及し始め、大手就職情報会社はナビサイトをスタートしていた。

名大社は大手に比べ2~3年遅れていた。
僕は早い段階からネット事業への参入を訴えていたが、
営業全体として危機感は乏しかった。
その後、インターネット委員会なるものか立ち上がり、僕もその一人として加わった。

この年は社長宅での飲み会が頻繁に行われた。
数名のメンバーが招かれ、社長が手料理を振舞ってくれるというもの。
僕は6月上旬に役員、先輩、後輩と一緒に出向いた。

最初は和気あいあいとした飲み会。
どうだろうか、1時間過ぎたあたりから雲行きが怪しくなってきた。
社長も少し酔いが回ってきたのか、
最初からそのつもりだったのか、雰囲気が激変。
僕へのあたりが強くなった。
いかに僕が自分勝手な社員であるかを強調していた。

そして、言われた。
「テツ、明日、辞表を持ってこい」

続く・・・。

名大社半生を振り返る その11

98年は下半期に入り、大幅な人事異動があった。
とはいえ小さな組織。
営業部門内での人の移動があっただけのこと。

それまで組んでいたTが新たにデスクとなり僕のチームから離れた。
大阪からやってきたHは退職し大阪に戻った。
僕のチームは今や派遣会社の社長を任され、
僕から日本一めんどくさい女と呼ばれるMと元々部下だった女子I。
そして現在、副社長の高井のチーム構成。
高井と組むのは初めてで、それまで深く話したこともなかった。

当時、チームや会社の飲み会は「焼肉屋さかい」さんを使うことが多かった。
僕の大きなクライアントで出稿額も大きかったが、その分、金券も多く購入していた。
会社としても個人としても・・・。

「また、焼肉屋さかいですか?」
高井もそんなことを言っていたんじゃないかな。
新チーム構成で間もない頃、予定していた飲み会で女子二人が体調不良。
その時、初めて高井と二人で飲んだ。
話は覚えてないが、日記には”変わっているが面白いヤツ”と書かれている。
いずれこのブログにも登場するだろうね(笑)。
その後、ちょくちょく2人で飲むようになった。

この頃のチーム編成はいろんな問題があった。
それは後から気づいたが、社内はゴタゴタを抱えていた。
さすがにその内容を披露できない。
僕は当事者ではなかったが何故か巻き込まれていた。
この頃からかな、面倒な問題に巻き込まれるようになったのは(苦笑)。

会社に不信感を持ったのもこの時期。
今思えば会社の判断は間違っていないが、必要以上にドラスティック。
だから余計に会社に対して迷いを持っていた。

ちょうどそんな時。
11月下旬、中日新聞を読んでいたらある求人広告が目に入ってきた。
当時、もっとも勢いのある人材会社が名古屋支社を開設し、そのメンバーを募集するという。
イケメンU氏が牽引する会社だった。

これまで転職活動は一度もしたことがなかった。
32歳。
年齢的にもギリギリだと思ったのかもしれない。

会社説明会に参加し、選考を受けることにした。
僕が求めること、やりたいことができそうだった。
書類選考後、一次面接は名古屋支社長。
1時間ほど面接し、どちらかといえば面談し、最終面接は副社長。

その時に言われたことは今でも記憶に残っている。
「山田さん、貯金はありますか?」
「はい、ある程度は・・・」
「今、いい年収ですよね。間違いなく下がりますから・・・」

そんな会話。
こちらの覚悟を窺っていたのだろう。

その98年の年末は家族で温泉旅行に出掛けた。
露天風呂で夕日を眺め、1歳半の娘にお酒を注いでもらいながら考えていた。
「来年は大きく環境が変わるなあ~」

続く・・・。

名大社半生を振り返る その10

「30代、男は仕事だ!」
10数年前のキャリアカウンセラーの講演会でそんな話をした。
当時の素直な気持ちを語っただけだったが、
終了後、仲のいいカウンセラー仲間に言われた。

「山田さん、あの発言はマズいよ。女性だって仕事中心の30代はいるわけだから・・・」
キャリアカウンセラーは女性比率が高く、確かに怪訝そうな雰囲気もあった。
女性蔑視のつもりは毛頭ないが、受け止め方は様々なので発言は気を付けなければならない。

ただ事実として30代は仕事中心の生活だった。
97~98年頃の30代のスタートは特に調子に乗っていた。
世の中は不況まっしぐら。
会社の業績も影響を受けていた。

それでも98年4月には課長に昇格。
係長を経験することなく、二段階の昇格だった。
この時に数名の先輩も抜いてしまった。
それも仕事がデキると思っていた先輩も・・・。

自分ではそんなつもりはなかったが、どこかで浮かれていたのだろう。
会社の体制やスピード感にも不満を持っていた。
ところどころにそれを表す発言があったのかもしれない。

5月下旬に社長が昇格のお祝いをしてくれた。
日本酒の有名なお店で気持ちよく飲んでいた。
そんな時の発言だった。

「自分で会社を興して社長をやるより名大社の社長の方が楽ですよ。」
当時、名大社はTVCMの効果もあり、知名度がグングンと上がっていた。
それは会社の優位性を示す発言だったが、社長はそう受け止めなかった。
自分に対して皮肉と受け止めたのだろう。

また、その後、行われた株主総会でも迂闊な発言をしたようだ。
発言内容の記憶はないが、否定的なことを言ったのだろう。
そんなことが日記に記されている。
(もっと具体的に書いておくべきだった・・・笑)

そんな積み重ねが1年後のズタズタ状態に繋がるわけだが、
その時はそんな気配も感じていなかった。

国内では長銀や日債銀が破綻。
不況は深刻化していた。
社内では営業へのあたりも強くなっていた。
営業集約は日に日に厳しくなった。

懇意にしていた先輩も退職し寂しさもあったのだろう。
「オレはいつまで名大社にいるのか。
このままでいいのか。
会社は自分に合っているのか」
そんなことを漠然と考えていた。

部下や後輩はいたが頼れる先輩はほとんどいなくなっていた。
当時、社内では後輩や部下、時々部門、
社外では元名大社のメンバーとよく飲んでいた。
会社からは一定の評価をもらっていただけに葛藤していた。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その9

1997年からは記憶が鮮明になる。
というより30歳の時に日記を書き始めた。
大事なことは書き留めているので、忘れていてもその日記を基に紐解くことができる。

4月に娘が生まれた。
新たに部下がついた。
初めて女子の部下。
「女性も上手く使えなければ、いい上司にはなれない。」
社長からそんなことも言われた。

かなり調子が良かった時期だったと思う。
自分勝手に会社の中心にいると思っていたかもしれない。
それが後々、不幸を招くが、この時は知る由もない。

会社のスピード感に不満を持っていた。
古臭い体制の会社だと思い込んでいた。
当時は自己啓発本や独立起業を促す本も読んでおり、
自分はデキる人間だと思い込んでいた。

その頃、会社の名刺も縦書き1色のパッとしない名刺、
封筒も茶封筒で冴えないデザインだった。
その茶封筒に資料を入れて、システム手帳持って営業に出ていた。
広告代理店の気取った連中がやっていたこと。
いけ好かないヤツだったのかも・・・。
少しでもカッコよく見せたかった。

そこで社長に直訴して、名刺から封筒からすべて刷新した。
数名のメンバーと案出しし、会社に提案。
そのデザインは僕が社長になるまで使っていた。
社長になった時に再び名刺は作り替えたけど・・・。

他にも資料作成委員会、AV委員会などいくつかのプロジェクトに加わり企画面の仕事をしていた。
当時は学生向けのガイドブックも発行しており、その企画紙面も考えていた。
今の時代なら考えにくいが、そういったプロジェクトは夕方6時あたりからスタート。

日中は営業時間という認識で営業集約含め会議は6時以降に行うのが普通。
それが終わって夜8時。
そこから飲みに行っていた。
いや、もっと遅かったかな?

自分ではまっとうな意見を言い、積極的にアイデアも出していたつもりだった。
仕事ができると錯覚していた。

そして、会社のスピードに遅さを感じていた。
それが不満だった。
怒涛の30代。
果たしてどうなっていくのか。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その8

入社7年目(1995年)28歳の時に主任になった。
今の名大社でいえばサブリーダーのポジション。

驕った表現ではなく、その昇格は遅かった。
それまでに十分相応しい実績は出していた。
そんな見られ方は周りもしていたと思う。
自分もなぜだ、なぜだと思っていた。

その前後に直属の上司に言われた。
できれば山ちゃんとF(同期)を一緒に上げたいと・・・。
その同期の実績が伴うのを待っていたとのこと。

しかし、結果的に僕が先に昇格した。
それが原因ではないと思うが、しばらくして同期は退職した。

当時、名大社では主任は部下を持つことが前提。
僕も初めて部下を持った。
中途で入社した4歳年下のT。
いろんな経緯があり名大社に入社したのだが、とても優秀な人材。

最初に「同い年だけど新卒入社の先輩Yを抜け」と言ったら、
「そこは見てません。山田さんを抜きます。」
軽く言い切った。
口だけではなかった。

抜群の営業センスを持っていた。
1年目からかなり活躍したのではないだろうか。
僕との相性も良かった。
酒は飲めなかったが、2人でよく飲みにも行き未来を語り合った。

おかげで僕も評価されたし、僕の成績もよかった。
当時は年末に社員総会を行い、優秀社員の表彰をしていた。
いくつかある賞の中で最も栄えあるのが「名大社さん賞」。
その年、名大社を代表する社員がもらえる賞で分かりやすくいえばMVP。

その年は僕が受賞した。
当時では最年少。
役員(その5で揉めた人)と三越に行き、オーダーでブレザーをこしらえてもらった。
「三つボタンにしてください」と頼んだら「調子に乗るな!」と却下された。
派手なエンブレムも付いた。

社員総会で表彰され、着させてもらった。
挨拶で「三つボタンが良かった」と言ったら叱られた。
調子に乗ってはいけません・・・。

あのブレザーはどこへ行ったのだろう。
ほとんど着る機会はなかった。

主任になった一年間はかなり燃えた年だった。

翌年、大阪から何故かやってきた新卒Hが新たに部下になった。
関西弁丸出しで宴会ではメチャクチャ盛り上げる存在だったが、
クライアントでは全く喋れなかった。

そのギャップは面白かったが、成績は今一つ。
部下の育成の難しさを感じた年でもあった。
それでもTとHの3人のチームは勢いもあり楽しく仕事をしていた。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その7

先週の純粋な恋愛物語。
結構、反響がありましたね(笑)。

結婚したのが5年目、27歳の時。
バブルも崩壊し、少なからず影響を受けていた会社は売上を落としていた。
ピーク時からの社員数も減っていた。

当時のことは会社の記録としては残っているが、
僕自身がどこまで頑張っていたかはあまり記憶がない。
忙しくしていたのは事実。
僕の仕事も新卒事業をベースに会社の政策媒体にどっぷりと浸かっていた。

ちなみに1994年の標語は、
野性味、冒険心は日常性の眠りに反逆するみずみずしい企業の活力源である。
前社長が社員に求めるものを標語として掲げていた。

もう一つだけ難解な標語を紹介しておこう。
2001年は、
海岸線の傾斜は波打ち際に達し
そのまま 海に向かって没入している
くろずんだ荒涼たる海域に不安な眼を泳がせるのではなく
その場でくるりと後ろを振り返ればよい
われわれはそれで充分に知りえるのだ
波立つ水面下の意外ともの静かな海の形状を

さすが日本を代表する詩人のご子息だけのことはある。
僕も社長就任後は毎年、標語を作っていたが、とても真似することはできない。

とにかく野性味を求められた時代だった。
新しい商品も作っていたが、荒々しい行動が必要不可欠だった。

その中で揉まれながらも、独自の路線を歩んでいたような気もする。
新卒向け合同説明会の提案には自信があったし、それに付随する企画も自分で作っていた。
日産販売会社グループのイベントもその一つ。

愛知県や岐阜県の日産系のディーラーを集め、オリジナルのイベントを手掛けていた。
当時のキャラクターはイチロー。
各社との打ち合わせ、会場の手配、DM等の制作物の企画も全てやっていたんじゃないかな。
2回前のブログでぶつかった役員とはこの時はいい関係。
絶大な信頼を築いていたと思う。
多分・・・。

新卒事業に関してはガイドブックも発行していたし、連合DMも企画していた。
昔の人材系の人なら懐かしさを感じるだろう。
今の若手はピンとこないと思うけど。

20代後半は荒波に揉まれていたが、仕事もプライベートも充実はしていた。
それでもまだ何の役職もなく平社員のまま。
親しくしていた仲間は一人抜け、二人抜けていった時代。
自分の中にもどかしさを感じていた時代。

続く・・・。