
どうだろうか、映画が終わって時間が経過するにつれ、ジワジワと沁みてきた。
ちょっと不思議なラストシーンから遡り、様々なシーンを繋げていく。
そうか、あそこのあの場面はあんな意味だったのか。
当初抱いていた捉え方とはまるで異なる。
なるほど!と後になって納得。
そんな意味では余韻を楽しめたということか。
事前情報はほんの少し。
入れた情報は第二次世界大戦後のイタリアを描く。
そして、2023年イタリア国内興行収入第1位の映画であること。
それくらい。
ポスターの雰囲気から社会派ドラマと想像したが、そうではなかった。
その要素は含まれるが流れはコメディ仕立て。
えっ、ここでミュージカル・・・。
なんて意表を突くシーンも観られたり。
これも映画を観終わって知ったことだが、
主役デリア演じるパオラ・コルテッレージはイタリアの人気コメディアン。
しかも本作の監督、脚本。
映画では洒落っ気はあるが地味な女優さんというイメージ。
ラストシーンの仕草がコメディアンっぽいが、あくまでも演出と捉えた。
モノクロ映画であるため1940年代に制作された作品とも錯覚。
まあ、これも巧みな演出なのかな。
フランスでもそうだが当時のヨーロッパは女性に厳しい。
いや、アジアはもっとそうか。
離婚も中絶もできない。
2022年のフランス映画「あのこと」を思い出した。
僕らは勝手にヨーロッパは女性の立場も平等と思い込むが、大きく異なる。
(そうじゃないかな?)
本作なんかは圧倒的な男尊女卑。
仮に僕が昭和初期に生まれ育っても、この時期のイタリアは酷いと思うだろう。
特に作品の中心となる家族の夫イヴァーノは酷い。
今なら間違いなくDVで訴えられるが、当時は許される行為。
さほど問題になることはない。
それに耐えるデリア。
映画はそんな家族の様々な出来事を描くが、観る者は誰しもデリアに同情する。
そして、早く逃げろ!と思う。
一方的に映画の観方がデリアの肩を持つ方へ。
そこが上手い演出。
ネタバレになるので何が上手いかは言えないが、ジワジワ沁みるのはそんな点もあるから。
しかし、デリアの置かれた環境は特別ではなくイタリア全体にいえたんだろう。
だからあんな結末になっていくんだ・・・。
もっと歴史を学ばねばいかんね。
どこの国も最終的に強いのは女性。
それも偏見か(笑)。
それを改めて知らされた映画だった。

「静かな退職」という言葉を目にした時、昨年の「静かに退職する若者たち」を思い出した。
海老原さんも早期離職をする若者の特徴についての書籍を出されたのかと・・・。
僕のイメージとは全く異なった。
ここでいう「静かな退職」とは、会社を辞めるつもりはないものの、
出世を目指してがむしゃらに働きはせず、最低限やるべき業務をやるだけの状態をいう。
アメリカのキャリアコーチが発信し始めた和訳とのこと。
2月の海老原さんと石丸伸二さんのセミナーと本書で言葉の意味を知った。
日本の若者の傾向のように思えるがそうではない。
世界中の多くの働き手が「静かな退職」。
決められた時間だけ働き、定時になったらそそくさと帰る。
アメリカでもヨーロッパでもそんな働き方は多い。
むしろその方が生産性は上がる。
仕事とは手を抜けば抜くほど生産性は上がると海老原さんはいう。
僕のような昔の価値観の持ち主は今でも懐疑的だが、中身を理解すると確かにそう。
売上目標を達成するために残業をしまくり、用もないのにお客さんの下に頻繁に通う。
わずかなミスでも必要以上の謝罪をする。
それを当たり前としてきたが、合理的に考えればムダな作業を繰り返し。
その頑張りで会社を支えてきたんだ!という自負は通用しない世の中。
出世は誰しもが望むと考えたのも過去の話となった。
僕も会社のトップになりポストに見合う人材配置を行い矛盾に気づいた。
全てを昇格させるのも責任あるポストを与えるのも難しい。
ヤツは今のままでいい・・・。
そんな人材の重要性も組織を束ねる上では必要なことも理解できた。
更に加速させたのが本書。
静かな退職者が日本の企業において重要な役割を担う。
極力リストラを生まない体制や安定した雇用の維持にも必要なこと。
万年ヒラ社員という言葉がネガティブではなく普通の働き方として認められる時代。
僕もそれでOKとようやくいえるようになった。
これも多極化の一つなんだと・・・。
本書は欧米の事例や数多くのデータから、これからの在り方を解説。
そのための仕事術まで著されているので、「静かな退職」を希望する方にも役に立つ。
それに対応すべきマネジメント層が学ぶ点も多い。
これからの社会がこちらの方向に向かっていくのか。
学生に提供する価値ある情報の一つにもなる。
僕のような立場にもかなり勉強になった。
ありがとうございました。

いじめ問題はいつの時代になってもなくなることはない。
それは日本に限ったことではなく全世界でいえること。
本作はベルギー映画。
過去、他国との合作は観ているが一国での制作は初めてじゃないだろうか。
お国事情というよりは子供の置かれた環境。
日本やベルギーが特別ではなくきっと万国共通。
だから普遍的なテーマで扱われる。
本作についても目新しさはない。
どこかで見た風景ではある。
しかし、なぜか深く僕の心に刺さってきた。
それは客観的な視点ではなく、7歳の少女の視点で描かれているからだろうか。
目線は小さな子供の範囲。
大きな視野で物事を見ることはない。
せいぜい半径5メートルの世界。
映し出しカメラは低い位置でほぼアップ。
時折遠い風景を映すがはっきりとは見えない。
ぼやけている。
子供の目が見えないということではなく、子供が見れる世界は限られている。
だからこそ少女ノラが抱く不安や寂しさ、大人への恐怖がヒシヒシと伝わる。
時に子供は残酷だ。
人を傷つける気もない正直な言葉に人は傷つく。
気づくのは本人だけ。
悪意がない分、寂しく辛さを感じる。
普通の生活と普通じゃない生活。
何も変わることはないが受け止め方によって普通が普通でなくなる。
大人になればやり過ごすことができるが子供はそうはいかない。
感情が揺れ動き、違う方向に影響を及ぼす。
ここまで書いたところで映画の内容は理解できないだろう。
まあ、いつものことだしそれでいい(笑)。
本作は72分と映画としては短い。
繰り広げられる世界もほぼ小学校内。
校庭か教室か。
とても小さな世界だが7歳の少女からすれば大きな世界。
ほぼアップが続く巧みな演出により小さな世界が不安を与える大きな世界になる。
ローラ・ワンデル監督の力量だろう。
それにまして引き込むのが主役ノラを演じたマヤ・バンダービーク。
7歳の少女の葛藤を見事に演じる。
とても演技とは思えない。
ここ近年の子役では断トツじゃないかな。
そんなことを感じた。
本作はカンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞。
とはいえそれは2021年。
国内でもっと早く公開されてもいいと思うが・・・。
7歳のノラはもう11歳。
今、どんな生活を送っているのだろうか。
笑顔で健やかに学校に通っててほしい。

公開直後のレビューの高さは気をつけなけばならない。
実力以上に高い評価が頻繁に見られる。
公開から一週間ほど経過すると恐ろしく下がる作品も多い。
本作がそれだというつもりはないが、公開時は高い評価。
それが理由で観るのを決めた事も否定できない。
それだけでなく韓国の若者の実態を理解できると思ったのも理由の一つ。
日本でも韓国でも若者が生きづらさをよく耳にする。
先日の「ANORA アノーラ」や「リアル・ペイン 心の旅」もその面が強い。
成長を求められる世界では顕著に表れるのか。
職業学生にとしても教える立場としても把握しておきたい気持ちは強かった。
韓国と日本は似ている面は多い。
若者が将来に不安を抱くのは共通するし当然のこと。
舞台が日本でも違和感は感じないが、韓国の方が格差は大きい。
家庭環境、学歴、働き方は特にそう。
それが国嫌いに繋がり、海外に飛び出す理由になる。
日本の若者は内向きで海外に出ないというが韓国は真逆なのか。
主人公ケナの行動をみるとそう感じる。
ケナは英語を話せないが、家や職場から離れたい一心でニュージーランドに渡る。
周りには同じような韓国人もいたり。
セリフにもあったが、裕福な家庭であればニュージーランドではなく向かう先はアメリカ。
会話から劣等感を感じ自分の存在を図ってしまう。
国を出ても不安がなくなることはない。
むしろ暮らしの中で本国と海外の違いを知り、
ウザかった家族のありがたみを感じることとなる。
それを理解するためにも海外で揉まれる必要もあるだろう。
安易な目的で問題は解決しないが行動しないよりはまし。
なんらかのキッカケを掴むことは可能。
そんな点では何も変わっていないと思えるケナは成長した。
モヤモヤがなくなることはないが・・・。
派手でもなく地味でもなく平凡な日々から得る経験が人には大切。
そんなことを感じた映画。
レビューが高くなるか低くなるかは感じ方の違い。
大いに共感する人とそうでない人と大きく分かれそうだ。
ケナを演じるのはコ・アソン。
韓国は美人女優が多いイメージだが、至って普通。
(失礼ですね)
それが等身大の若者を映し出すようでいい。
韓国映画特有の派手な演出もない。
時にはそんな作品を観るのもありだね。

歯に衣着せぬ表現をされる冨山氏なのでかなり辛辣な書籍と想像した。
のほほんと暮らしているホワイトカラーは消滅し不要になるぞ!
と厳しい言葉を浴びせる内容と思っていた。
その香りはあるが、そこまで強烈ではなかった。
少し安心したかも(笑)。
この類の書籍を読む場合、以前は自分と重ね合せて読んでいた。
自分自身が今後どうしていけばいいのか?
そんな危機感を持ちながら読むことが多かった。
今でもその部分がないわけではない。
しかし、60歳手前で一通りの経験した今、そこまで真剣に自分を重ねることはない。
むしろ下の世代。
息子や娘はどう対処していけばいいか、
会社のメンバーにどうしてもらいたいか、
学生に何を伝えるべきか、そんな目線で読んでいた。
深刻な人手不足は言うまでもない。
採用支援を行う会社として毎日のように現実に晒されている。
一方でAIによって無くなる職業や仕事が語られる文脈も多い。
狭間に立つ者は自分の立ち位置に戸惑うだろう。
超売り手市場で学生の就職先への危機感は薄らいでいるが、
未来に対して不安は大きい。
漠然とした未来に期待感ばかり持たせるのは危険だが、
社会に対してネガティブになって欲しくないというのが個人的な考え。
そんな時に本書は有効的だ。
大学進学率が圧倒的な今、大卒の優位性がないのは事実。
すべてがホワイトカラーになれることはない。
古い価値観は捨てた方がいい。
多分、今の若者は現実を理解しており、親世代の方が古い価値観に縛られている。
50代の管理職も・・・。
僕が危うい世代なのは間違いないが、
仕事柄、幅広い層と接し何とか踏みとどまっている。
冨山氏はローカル経済の重要性を語ることが多い。
本書でもグローバル産業のホワイトカラーから
ローカル産業のエッシェンシャルワーカーへのシフトを取り上げている。
いずれホワイトカラーの仕事はブルシットジョブになってしまう。
そうなる前にアドバンスト・エッシェンシャルワーカーになれという。
確かにそういえるだろう。
僕の場合、ドブ板営業からスタートし、本書でいう「駅長さんモデル」を経験しただけ。
それが却って良かった。
そもそもホワイトカラーの能力がないかもしれないが、
ローカル企業で一通りやれたのはシアワセなこと。
ローカルな中小企業も悪くはない。
おススメするつもりもないが、ひとつのケースにはなる。
本書には世代ごとのホワイトカラーの処方箋も著されている。
特に若い世代には勉強になるのではないか。
可能性も広げられるしね。

予告編はどれだけ観たことか。
ナンパな恋愛映画と思っていたが、気づいた時にはアカデミー賞の各賞にノミネートされていた。
結果的に作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞、編集賞を受賞。
ほぼ独占といっていい。
昨年の「オッペンハイマー」が硬派な作品だけに傾向の違いに驚いた。
ナンパな恋愛映画は予告編の顔。
アノーラがストリップダンサーで「契約彼女」なのでR18+と思ったが、そんな優しいものではない。
オープニングからかなりきわどい。
ロシア人のバカ息子との激しいシーンも想像以上。
そりゃあ、18歳未満は観ちゃダメだよね。
隣の観客が若い女性だったので、やや緊張してしまった。
カップルも多かったが、どんな感想を共有するのだろうか。
本作の意を汲むのは難しい。
アノーラは純粋で一途な想いだけだったのかもしれない。
バカ息子も葛藤や苦悩があったのかもしれない。
しかし、ドラッグと酒とセックスに明け暮れ贅沢三昧の姿を見ると60歳前のオッサンはたじろく。
本当に一途?
その苦悩は本物?
と思ってしまったり。
ただ、なんだろう。
有無を言わせぬスピード感がたじろくオッサンを凌駕する。
若さが世間の常識をぶっ飛ばす。
ただ、勢いは長くは続かない。
常識面したぶっ飛んだ司祭が現れたあたりから物語の様相も変わる。
そして登場するバカ息子の両親。
僕がバカ息子といっちゃいけない。
あくまでも御曹司。
いっていいのは実の両親だけ。
両親は誰に対してもストレートな物言い。
自分たちが一番偉い。
この親にしてこの息子か・・・。
そんなことも思ったり。
一体、誰がまともなのか。
一周回るとアノーラが一番まともにみえる。
きっと人なんてそんなもの。
職業や人種や収入で人の価値を図る。
グルーッと回ってようやく人の価値に気づくのだ。
すべてを客観的に見ていたイゴールという寡黙な男がその役目。
だからチープな恋愛映画で終わらず、アカデミー賞を受賞することにもなったのだろう。
それは違うか(笑)。
これからアノーラはどこへ向かっていくのか。
なぜか彼女には幸せになってほしいと願う。
そしてバカ息子、いや御曹司はこれからまともに働くのか。
どうでもいいことも観終わった後に感じたのだった。

ボブディランは現在83歳。
どんな気持ちで本作を観たのだろうか。
あんな上目遣いの視線は送ってないぞとか。
もしかして、観ていない?
少なくとも本人に何らかの取材や協力依頼はあったと思うがどうなんだろう。
そのあたりの情報が載っていない・・・。
現役での伝記映画は珍しい。
「ボヘミアン・ラプソディー」でも「エルヴィス」でも没後に描かれている。
そういえば「エルヴィス」はまだ観ていない。
多少、美化されて映し出される面があると思うが、本作はどうだろうか。
ボブディラン本人は納得しているのかな?
彼がデビューした時、僕はまだ生まれていない。
洋楽にハマりだした中学生時代はビリージョエルやイーグルス、
REOスピードワゴンが好きで、ボブディランはひと昔のミュージシャンという印象。
後に功績を知ることになるが当時は聞いたことがなかった。
ちょくちょく耳にするのは最近かもしれない。
伝記映画として下積みの苦労が描かれていると思ったがそうではない。
ほとんど下積みはないし、売れるまでも苦労はしていないように思える。
デビュー前から才能をいかんなく発揮し周りは端から認めていた。
むしろ本人の予想以上の影響力に苦悩していたのではないか。
天才ゆえの悩みか。
だからこそ破壊者的な存在にもなっていったのか。
そんなふうに思わせる。
彼が売れ始めた1960年代前半はアメリカも混とんとした時代。
ケネディ大統領の暗殺など暗雲とした社会的背景が彼を求めたのだろう。
そんなことは僕が言わなくても分かっていることだが、
どんな時代も時代に相応しい名もなき者が現れる。
作品で流れる曲はボブディラン本人の音声を合わせたと思っていたがそうではなかった。
主役ティモシー・シャラメの演奏であり歌。
僕は素人ながらに見事だと感じた。
ついでにいえばジョーン・バエズ演じるモニカ・バルバロも本人。
とても美しい歌声。
いやいや、今どきの役者は凄いね。
2人のデュエットの写真を見る限りソックリだし。
と音楽に疎い者の見方だが、それだけでも観る価値はある。
残念ながらどの部門もアカデミー賞は叶わなかったが見応えのある作品。
改めてAmazonミュージックでボブディランを聴こうと思う。

女子柔道の世界大会を舞台にした社会派ドラマ。
僕らはオリンピックにしても世界大会にしても柔道の試合を見る時は日本目線。
お家芸もあるので日本人選手の活躍しか見ない。
金メダル獲得とか、準決勝敗退とかニュースで一喜一憂するが、
相手選手がどこの国のどんな選手かを気にすることはない。
作品を観て、その視点を反省した。
今や柔道は世界各国で頂点を目指すスポーツ。
そして様々な国の事情を抱えながら試合に臨む。
僕の平和ボケを否定はしないが、もっと高い視点で観戦した方がいい。
本作は実話がベースで世界柔道選手権でのイラン代表選手や監督の葛藤を描く。
直接、時期は明かされていないが、東京五輪の話題が出るので比較的、最近のこと。
詳しくは映画を観てもらえればと思うが、軽いショックを受けた。
イランという特殊な国のあり方。
そこで暮らす国民の関わり方や感情。
シンプルに勝利を求めて闘うアスリートの苦悩。
描かれる世界が理解してそうでしていない分、軽いショックを受けるのだ。
国全体を表すスケールの大きい話ならともかく一人の女子柔道選手の話。
その方が身に迫るものは大きい。
国のあり方にピンとこなくでも個人の生き方に感情移入はしやすい。
一人の選手の活躍を見ながら、イランという国の恐ろしさを感じた。
解説を読むと製作はアメリカ・ジョージア合作。
当初、なぜ?と思ったが、映画の途中から理解することができた。
当然のようにイランでは上映不可。
製作に関わったイラン人出身者は全員亡命したという。
命懸けの作品ということが状況から判断できる。
僕らはこんな作品を通し世界を知る。
日々報道されるニュースやドキュメンタリーも重要だが、
事実に基づき演出の加わった作品から得ることも大きい。
それが「TATAMI」という原題を通し僕らに訴えかける。
何のために競技を行うのか。
国と国とぶつかり合うのか。
そこには純粋なスポーツマンシップが基本のはず。
そこに大義のようなエゴが生じる。
観る者は何が正しくて、何が正しくないかを理解する。
しかし、角度を変えれば正しいことは180度変わる。
さほど話題になっていない作品だが、多くの人に観てもらいたい。
迫力ある柔道シーンも見応えはあるが、言葉にしないメッセージを感じてほしい。

広瀬すずが映画やドラマで重宝される理由がよく分かった。
可愛らしい女優というのが理由だけではない。
本作で演技の幅の広さを感じた。
Netflixドラマ「阿修羅のごとく」の虚勢を張る少しワガママな四女咲子もよかったが、
本作の男たちを翻弄する女優長谷川泰子もよかった。
両方とも感情的で喜怒哀楽が激しい役だが明らかに異なる。
咲子は末っ子という幼さを感じるが、泰子は辛い過去を背負う生きづらさを感じさせた。
感情の激しい演技でも全く異なるタイプ。
広瀬すずの魅力が十分に伝わってきた。
そして監督は根岸吉太郎氏。
若い人はピンとこないと思うが、僕ら世代にはなじみ深い。
80年代、90年代、根岸監督は多くの作品を残してきた。
ピンク映画からキャリアをスタートさせ「遠雷」で注目され、
「探偵物語」「ウホッホ探険隊」「永遠の1/2」など話題作を連発。
柔らかさの中に芯が通った人間ドラマが多かったように思う。
当時、ほとんどの作品を観た。
前作「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」からは14年ぶり。
この作品もDVDで観て稚拙なブログを書いていた。
この14年間、何をしていた?
と思ったりするが、こうして新たな作品を撮ってくれるのは嬉しい。
文学的な香りがする映画が似合う監督の一人だ。
本作は大正時代に活躍した詩人中原中也と文芸評論家小林秀雄と泰子のドロドロとした男女関係を描く。
実話がベース。
ドロドロといっても方や詩人、方や文芸評論家がそれらしく語るのでイヤらしさは感じない。
高尚な行いのような錯覚を与える。
それが大正らしさかもしれないし、インテリチックな文学界を表しているのかもしれない。
そんな会話や行動に挟まれた泰子は次第に壊れていく。
辛い過去が精神を病ませたと思わせるが、
僕は中原中也と小林秀雄の関係性や言葉が精神を病む原因だと感じた。
一時は美しい言葉に思えても、毎日浴びせられると疲れてしまう。
今風にいうとパワハラに近い。
あんまし関係ないかな(笑)。
田中陽造氏が40年前に書いた脚本なので、どんな時代も人に与える影響は不変ということか。
僕は悲しいかな中原中也も小林秀雄もしっかりと読んだことはない。
教科書レベルの話。
中原中也は若くして夭折した天才詩人という印象。
しかし、本作はその印象を遠ざける。
木戸大聖がガキっぽく演じてたせいか幼稚に見えた。
根岸監督の意図した通りかは分からない。
岡田将生演じる小林秀雄は大人に見えた。
実際に小林秀雄は5歳年上だから正解か。
本作が若い人にウケるかは分からない。
ただ実話を純文学っぽく見せる映画が存在してもいい。
そんなことを感じた作品。
広瀬すずの素晴らしさもね。

来週3月7日より公開。
本作は東宝東和さんから試写会へ招待され公開前に鑑賞。
映画コラムニストを語りながらもこのジャンルを観ることは少ない。
どうしても子供向けじゃないかと敬遠してしまうのだ。
その偏った見方は映画を観て素直に反省。
実際は子供向けではなく大人が楽しめるファンタジーミュージカル。
勝手にディズニー作品と判断したことも反省。
ディズニーではありませんよ。
上映時間は161分と長い。
それだけではない。
本作はPART1でPART2が続く。
これは一般的に知られていないと思うが、どうだろうか。
PART1を観たほぼ全員がPART2を観るだろう。
そこは巧みな演出。
上手く誘導している。
「オズの魔法使い」に登場する悪い魔女といい魔女の知られざる世界を描いているが、
その世界のスケールは凄い。
CGを駆使し映像も迫力はあるが、そこに加わるミュージカル。
さらにバトルも繰り広げられてんこ盛り状態。
一本の映画でいくつものジャンルを楽しめるともいえる。
子供が観たら疲れちゃうんじゃないかな。
僕らは人を見た目で判断するケースは多い。
肌の色とか人種とかダイバーシティが当たり前の世界でもこれまでの価値観で物事を捉える。
それは人間だけはなく動物もそう。
予告編やチラシからいい魔女と悪い魔女を勝手に判断する。
それが果たして正しいかどうか。
マジョリティとマイノリティ。
本作はそんなことを我々に問うているようにも感じる。
そんな視点で映画を観ると完全に大人向けの作品。
しかしファンタジックな映像は子供たちをワクワクさせるだろう。
ターゲットが存在しそうでしそうにない。
となると自分の眼で確かめてもらうしかないね。
本作はアカデミー賞にも多くの部門でノミネートされている。
発表は明日なので、どこまで獲得するか。
それにより大ヒットするかの影響も出るだろう。
僕のブログのアクセスも急上昇したりして。
楽しみにしておきたい。
東宝東和さん、ありがとうござました。