本作のキーワードは「死刑」でもなく「病」でもなく「いたる」。
そんなふうに僕は感じた。
この映画がもたらそうとしたものは何なのか。
映画を観ながらも、映画を観終わっても、僕は回答できない。
映画に登場する人物同様、阿部サダヲに振り回されただけだ。
一体、どうしたいのか・・・。
それがまさに「いたる」だと思う。
僕はこれまでの白石作品をイメージさせながら観ていたが、明らかにジャンルは異なる。
目を覆いたくなるようなハードなシーンは彼の特徴でもあると思うが、
人物の描き方はこれまで以上に深刻というか異次元の世界。
今、僕の中で白石監督は日本映画で最も注目している監督。
かなりの作品を観ている。
明るく幸せな映画は皆無で、人の闇へ誘う作品が多い。
ちょっと病んだ人間が更に病み、傷ついた人間が更に傷つき、
どうしようもなく堕ちていくケースが多い。
その中でかすかな希望が見え隠れしたり・・・。
そんな作品ばかり。
映画を観てハッピーになりたい人は避けた方がいい監督の一人。
僕はどちらかといえば、そちら側に人間だが、
不思議と白石監督には惹かれ、本作も公開2日目に観てしまった。
どうやら闇に共感する一面が体内に潜んでいるのかも・・・。
しかし、そこを超えてしまったのが本作。
人として全うな面は見事にかき消されてしまった。
それは悪人が救いようのない極悪非道の悪人ということではない。
人を魅了し、なぜか好意を抱かせてしまう魅力を持つ悪人。
それも完璧に相手をコントロールし、
ギリギリになるまでそれが分かることはない。
分からないまま過ごしてしまう人物も多い。
それは獄中であっても、これまでの生活圏でも・・・。
死刑囚榛村大を演じる阿部サダヲはその役柄を完璧にこなす。
死んだような目つき、善人の塊のような笑顔など恐ろしいくらい。
彼が見事に演じることで極上のサイコパス作品が出来上がるのだろう。
それに付き合うのは心も体も疲れてしまう。
かなり観る者を選ぶ映画になるんじゃないかな。
これから白石監督はどこへ向かっていくのだろう。
益々、目が離せなくなってしまった。
きっとオファーは尽きないだろうから、今後も注目したい。
未鑑賞の「彼女がその名を知らない鳥たち」をまず観ないと。
そうか、これも阿部サダヲ。
この2人が組むとかなりヤバいかもね。
映画を観ながら、ずっと思っていた。
僕は父親として子供のことを理解していたのかと。
子供の素直な気持ちを聞いたり、受け止めたりしていたのかと。
そもそも子育ても嫁さん任せで大したことはやってこなかった。
自分の価値観は押し付けたかもしれないが、
子供の価値観を理解していたのだろうか。
つくづく父親としては何もできていないな、
そんなことを映画を観ながらも、終わってからも感じていた。
本作は父親と息子の関係を描いた映画ではない。
ホアキン・フェニックスが演じるジョニーが
甥っ子であるジェシーを数日間、面倒をみて共同生活するというストーリー。
特に波乱に満ちた場面があるわけでもなく、
衝撃的な展開が待っているわけでもない。
移動を伴う仕事をするジョニーがアメリカの街を転々としながら、
ジェシーと関係性を築いていくだけの話。
ただそれが簡単でない。
当たり前だ。
9歳のジェシーは小さな子供。
親と離れた生活をそれほど深い関係でない伯父さんとするわけだから、
子供ながらの自分勝手な行動や感情が溢れ出る。
好奇心旺盛で聞き分けがいい時はいいが、そうでない時は面倒でしかない。
正論をかざしたとことで理解できる能力はまだ備わっていない。
その割にはませていて、一人前のことを喋ったりもする。
大人に対しての一定の理解を示す。
お互いの会話は本質を突き哲学的。
ハッとさせられ、冒頭に書いたように自分自身の未熟さを痛感する。
ジョニーの仕事はラジオインタビュアーなので、多くの人を取材する。
その大半が10代の子供。
置かれている環境は異なり、人種も含め多様。
その中で自分自身を表現している。
どの子供も真っ当な話をする。
子供らしさを感じれば、大人への不信感、将来への期待や不安も表現する。
それがジェシーの言動とシンクロし、観る者に余計な考えを生ませることになる。
まんまと僕は乗っちゃったわけね・・・。
うむ、辛い。
優しくするだけでもダメ、厳しくするだけでもダメ、
どう真剣に向き合うことができるか。
それは海外であろうと国内であろうと同じ。
万国共通で子供は子供で自分を認めて欲しい、愛して欲しいと思っている。
今頃、気づくようでは失格。
なんだかダメージを受けた映画になってしまった。
ホアキン・フェニックスはご存知ジョーカー。
本作では腹の出たオッサン。
同じ人物には思えない。
そして9歳のジェシー役のウッディ・ノーマン。
いやいや、天才子役だね。
とても演技しているとは思えない。
映画の中で時折話される、カモン、カモン。
そんな意味なんだ。
しかと受け止めねば・・・。
20年前に上映して欲しかった。
うむ。
最近、「地政学」という言葉をよく耳にする。
特にロシアがウクライナ侵攻を始めてからは多くなった気がする。
僕が学生時代、ボーっとしていたせいかもあるが、
昔はそんなに耳にしなかったような気がする。
違うだろうか・・・。
書店にもその類の書籍が並ぶ。
佐藤優氏の著書か迷ったが、もっと手前から学ぼうと手にしたのが本書。
帯には真山仁氏が
「大人にこそ読ませたい未来を生き抜く必読書」
と勧めているし・・・。
文字通り13歳からの地政学なので、とても分かり易い。
高校生と中学生の兄妹がカイゾクと呼ばれる
アンティークショップの店主から7日間、地政学を学ぶ。
その学びの中で登場するのが地球儀。
地球儀のある国や地域を指しながら、周辺諸国との関係性を解説していく。
海を支配する国が強い国になること、
陸続きの国の難しさや少数民族を抱える国の悩み、
アフリカは何故豊かにならないのか、
地形で運不運が決まってしまうこと等々。
世界で起きている事実は知っているようで、実は何も知らない。
僕は表面をなぞっていたに過ぎない。
100年前の地球儀を見ると朝鮮半島は日本になっているし、
国の数が今より100以上少ない。
アフリカの国々の境界線が直線で引いてあることに
何の疑問を持たなかったのを恥ずかしく思う。
そこにも大きな理由があるのだ。
本書を読みながら、改めて自宅の地球儀をまざまざと眺めてみた。
普段はインテリアとして存在するだけで、埃も被っていた。
この地球儀、どうしたんだっけ?
ユーラシア大陸を見ると比較的新しいことが分かる。
選べるギフトでもらったのか・・・。
改めてロシア、ウクライナ、ポーランド、ルーマニアや
その周辺諸国を眺めるだけでも、いろんなことが頭に浮かぶ。
昨年観た「コレクティブ 国家の嘘」はルーマニアの映画。
その時は思わなかったが、こうして場所を確認するとその国の姿勢が腑に落ちる。
政治色も表れるわけね・・・。
地球儀の裏側も見てみた。今までひっくり返して見たことはない。
南極大陸って、こんなにデカいんだ・・・。
南極って、誰のもの?
こんなことも考えたことはなかった。
頭の中は13歳レベルってことか。
これを機会にもっと地政学を学ぶとしよう。
次回は佐藤優氏かな。
自分なりの考えを述べれるようにならないとね。
ほんわかと幸せになれる作品。
映画を一言で表現するならそんな感じ。
登場する人物は決してシアワセな人生を歩んでいるわけではない。
それぞれが辛い過去を背負っているが、
その過去は過去として受け入れ真っすぐ生きている。
それもあくまでも自然体。
気負うことはない。
その流れる空気が実に心地いい。
舞台は伊豆の港町(多分)。
とても小さな街なので、街中はみんな知り合い。
ちょっとした噂もすぐに広まってしまう。
それを嫌がる人はおらず、それすら楽しんでいる感覚。
ネタバレしない程度に解説すると子供を事故で亡くした芙美さん(小林聡美)と
妻が自殺した吾郎さん(松重豊)とのちょっとしたラブストーリー。
松重豊はどこにいってもゴロウなんだ。
映画の中でも食事のシーンがあるが、井之頭五郎を思い浮かべてしまった。
この2人を中心に芙美さんの親友の小学生や会社の同僚が絡んでいく。
ここで存在感を出すのが同僚の妙子(江口のりこ)。
江口のりこが抜群に面白い。
「鎌倉殿の13人」でも独特のイヤらしさを出していたが、
本作ではコミカルに軽やかに絶妙な演技を見せる。
ほんわかさを上昇させているのは彼女のおかげ。
そして、やっぱり小林聡美がはまり役なんだろう。
雰囲気はCMやドラマのまま。
どこでも同じような気がするが、それが彼女の魅力なのか。
大林宣彦監督の「転校生」なんてもう40年前。
基本その時と変わっていないんじゃないかな。
そんなふうに思わせる。
なんだか出演者のことばかり書いているが、
小さな町のごく限られた登場人物だけで構成された映画。
そうなるのはやむを得ない。
映画的には昭和っぽさが残っているが、逆に今の時代だからこそ大切だとも思う。
コロナ禍で人との繋がりが希薄になったり、
妙なことで疲れてしまったり。
そんな時だからこそ温かい日本映画の存在はありがたい。
どこかの映画祭に出品する作品でも、
なにか特別な賞を受賞する作品でもない。
(すいません、失礼ですね・・・)
しかし、僕たちが忘れてはいけない何かと、
それを与えてくれる何かがこの映画に詰まっている。
個人的には好きな映画。
思わずホロっとしてしまうシーンもあるし。
そして、ラストシーン。
予想通りだが、予想を裏切ってくれる。
あの後、どうなったの?なんて愚問。
ステキなハッピーエンド。
愛に飢えたオジサン、オバサンは観た方がいいだろうね。
映画評論仲間と観た作品。
一年半ぶりに自称映画コラムニストが集まり語り合った。
いい大人が真面目に映画について語り合う。
時にはそんな場も必要で本作が課題作。
映画鑑賞後、誰もが神妙な面持ち。
言葉に出さずとも同じような感想を持ったのは一目瞭然。
映画への不満ではない。
つまらなかったわけでもない。
ヘビーに考えさせられる映画だったのだ。
本作はイラン映画。
多分、初めて。
今年もいろんな国の映画を観るだろうし、上映機会も増える。。
先週はジョージアの映画だったし・・・。
外国の文化や習慣を知るにはその国の映画を観ること。
自分たちが知らないことを教えてくれる。
本作は受刑者を主役にしているが、その取り巻く環境でも驚かされることは多い。
借金を返せない罪で刑務所に入らなきゃいけない。
受刑者には休暇が与えられ、自由な時間を得ることができる。
それを見張る者はおらず、休暇が終わると自ら刑務所に戻る。
それだけでもちょっとした驚き。
日本人の生活ではあり得ない。
映画はその休暇中の出来事が描かれるが、このあたりは国を問わず普遍のテーマ。
人としての倫理観を問われ、誰もが自分の名誉や保身と向き合うことになる。
その人間模様は偽善的に映るが、それを否定するのは難しい。
自分が同じ立場になったらどうする?
と迫られると同じような判断をする可能性は高い。
自分にとって都合のいい正義を振りかざしていまう。
時に弱者をいいように利用し同情を誘うこともある。
身に覚えはないが、近しい些細な事象は誰もが持っているのではないか。
話題になるか、ならないかの違いだけで。
善がいきなり悪になる。
だから「英雄の証明」をしなければならない。
本当の英雄は英雄である理由を説明する必要もなければ、
証明も要らない。
国を問わずSNSやメディアが与える影響は大きい。
映画もそうだし、昨今の海外の動きも見てもそう。
発信力が与える影響の恐ろしさを改めて感じた。
神妙な面持ちになる映画なのは間違いない。
本作の存在は全く知らなかった。
偶然観ただけのこと。
そんな表現では作品に対して失礼だが、正直な話。
では、なぜ観たか。
岩波ホールで上映されていたから・・・。
年明けのニュースで岩波ホールが7月末で閉館することを聞いた。
開館時からヒットしそうもない隠れた名作を上映する映画館とは知っていた。
一度くらいはお邪魔したいと思いつつ、機会がないまま今に至った。
これも偶然だろう。
最近、なぜか神保町に伺う機会が増えた。
そして、上手く時間調整できた。
それで観ることができたのが本作。
たまたまが重なったが、本作もいかにも岩波ホールらしい映画。
しかし、事前知識は一切なし。
ポスターからご老人が主役の映画と想像させるくらい。
オープニングのテロップが何語かさっぱり分からない。
どこの国の映画?。
映画を観ながら北欧?ロシア?とはっきりしないまま映画は終わった。
初めてジョージアの映画を観た。
本作は日本との国交樹立30周年記念作品で、その題材は日本の由来。
金の糸で過去を繋ぎ合わせるのなら、痛ましい過去でさえ財産になる。
ラナ・ゴゴベリゼ監督はそういう。
短絡的な観方だと老人の過去を振り返る恋愛映画になってしまう。
それは確かに短絡的。
現実はそんな甘っちょろいことではなく、激動の時代が背景。
ソビエト連邦下でのそれぞれ置かれた立場が複雑に混じり合い、今の生き方に反映されている。
壊れた人生を継ぎ合わせることで修復することもあれば、
知らなければ幸せな人生の最後を迎えられるのに知ってしまったり・・・。
それが静かに流れる音楽と共に淡々と映画は進行する。
ジョージアの古い街並みが見事に絡み合う。
こんな機会でなければ、ジョージア映画に出会うことはなかった。
岩波ホールに感謝かな。
お邪魔した時、館内は結構な混み具合。
普段がこの状況なら閉館することはないと思う。
しかし、僕も閉館を知って訪れたにすぎない。
そんな観客は多い。
気づいた時には手遅れになる。
そうならないように金の糸を引くことを常に意識できるといい。
最後にお邪魔できてよかった。
ありがとうございました。
たまには書店に行かなきゃいけない。
本書は書店でなければ買うことはなかった。
そもそも存在すら知らず検索することもない。
たまたま寄ったジュンク堂書店で平積みしてあるのを手に取った。
発行元の風媒社は名古屋の小さな出版社・・・。
かつて名古屋には名古屋タイムズという夕刊紙があった。
僕らは「名タイ」と呼んでいたが、今の若い人はその存在すら知らないだろう。
広告を取り扱ったことはないが、名古屋の夕刊紙といえば名古屋タイムズ、
中京スポーツ、元上司が在籍する日刊ゲンダイ。
マジメな情報はほとんどなく、
(すみません、ちょっとはあるかな?)
娯楽、スポーツ、ギャンブル、お色気が中心。
僕が20代の頃はまだ元気ではあったが、ピークはとうに過ぎていた。
「名タイ」は平成20年に休刊。
時代の流れには逆らえなかった。
全国には同じような紙媒体はいくつもあるんだろうね。
本書は「名タイ」が報道してきた映画と野球の世界を描いている。
それも僕が知る由もない昭和20年代、30年代を中心に・・・。
映画コラムニストの端くれとしては名古屋の映画の歴史も押さえておかなきゃいけない。
脈々と続く文化が今に繋がっている。
その昔、映画は娯楽の王様。
驚いたことにピーク時(昭和27年)には名古屋市内には69館もの映画館があった。
栄地区だけでも15館あり、伏見界隈にも多くの映画館が存在した。
僕の住む中川区にもあったり・・・。
今でもシネコンを数に含めれば近い数はあるが、捉え方は随分異なる。
僕が愛用するミリオン座はその昔もミリオン座として独特の存在感を放っていた。
記録写真では当時の街の風景共に映画館が写し出されているが、どのあたりかはイメージできない。
昭和30年代の名古屋の街並みで分かるのはテレビ塔と納屋橋くらい。
それを眺めながら、いろんな想像をするだけでも面白い。
本書を読んでいて思い出したことがあった。
僕は学生時代、名古屋駅前の映画館でバイトをしていた。
今、ミッドランドスクエアシネマを運営する中日本興業が
駅前にいくつも映画館を持っており、その一つでバイトをずっとやっていた。
時給は驚くほど安かったが、運営する映画館はタダで観れたので十分元は取れた。
それとは別に僕の所属する映研は栄にある東映会館で代々バイトしていた。
当時、週末にオールナイトをやっており勝手に出入りしていたし、
観たい映画は当然のようにタダで観させてもらった。
おおらかな時代だった。
その頃、映画館に掲げられた大看板は一枚一枚手作り。
いかにも画家崩れのような人たちが別の部屋で大看板を描いていた。
すこぶる上手かった。
上映の切り替え時はその看板の取り付け作業も手伝った。
今や映画館もシステマティックになり、そうじゃないとストレスを感じてしまうが、
そんな時代を懐かしく思った。
映画のことばかり書いてきたが、本書には中日スタジアム、中日球場、
ナゴヤ球場に絡むドラゴンズや他のチームのことも・・・。
昔は名古屋にも女子プロがあったわけね。
記念に取っておくにはいい一冊。
あんまり本書に触れてない気もするが・・・。
たまには書店に出掛けようね。
昨年の公開時に見逃した作品。
つい先日もミリオン座で再上映されていたが、それもタイミング合わず観れず。
つくづく縁がないと思っていたら、Amazonプライムに登場。
ようやく観ることができた。
結論から言おう。
本作は映画館で観るべき。
本当はLIVEに行くべきだろうが、最低限でも映画館で観た方がいい。
その方が映画の魅力が十分伝わる。
映画を観た実績は残るが、少し物足りないような気がしてならない。
そして、もう一つ思ったこと。
やはり英語を理解する力。
一般的な海外作品もそれを感じるが、本作はより感じさせてくれた。
字幕があるとはいえ歌詞が理解できるかで伝える側のメッセージ力は異なる。
この年齢から英語の勉強なんて、どうかしてるのかな(笑)。
しかし、本作を観ると年齢なんてどうでもよくなる。
主役デヴィッド・バーンは公開時69歳。
あの軽やかな身のこなし。
創造的な空間作り。
そして、クールだが熱い発信力。
どこを切り取っても年齢を感じさせることはない。
むしろ人間的な厚みを感じさせる。
汗もかいていないし・・・。
ミュージシャンはみんなそう。
あれだけ激しい動きをしても、汗だくの者は一人もいない。
う~ん、ナゼだ??
監督はスパイクリー。
僕が20代の頃、一世を風靡した感はあるが、久しぶりに聞く名前。
ここ20年の活躍を僕が知らないだけだが、
今はこんな斬新で前衛的な映像を撮るんだ。
カメラワークをみるととても1回のLIVEを撮ったようには思えない。
一体、どんな演出があるのだろうか。
そのシンクロ具合も絶妙。
だからこそ映画としての評価も価値も高い。
70年代、80年代、
僕は多感な時期だったが、トーキング・ヘッズはほとんど聞かなかった。
当時は正統派のロックを求めていた。
本作でも知っていたのは最後のアンコール曲のみ。
あとは初めて聞いた曲ばかり。
そのあたりでも楽しみ方も変わる。
より音楽を知り、映画館で観ればもっと楽しめた映画だった。
ちょっと勿体なかったかな。
昨年の公開時に見逃した作品。
アカデミー賞ノミネート作品であり、主演男優賞を獲得。
アンソニー・ホプキンスの受賞を映画を観た人は誰しも納得するところ。
自己と葛藤する痴呆老人を見事に演じていた。
とても演技とは思えなかった。
本作のような家族愛を描く人間ドラマは珍しくはない。
テーマとしてもオーソドックス。
そこは僕が見逃した理由でもあるが、観終えて感じたことは「実に新しい」ということ。
痴呆症の老人に振り回される家族を描く作品はどこかで観ている。
それは日本映画であろうと海外映画であろうと描く世界は近い。
しかし、その視点はあくまでも相手側。
痴呆老人の相手をする家族や仲間の視点で描く。
時に感情的になり、時に冷静になり、時にその対応に疲れ切ったり。
痴呆症を客観的に捉えることがほとんど。
本作はその視点を持ちながらも、圧倒的に痴呆症の本人の視点で描かれる。
痴呆症の方がどんな目線なのか、どんな気持ちなのか、実際は誰も理解できない。
分析する術はあるだろうが、感情面は本人しか分からないはず。
いや、本人も目の前で起きていることは分からない。
手元にあるべき時計はなく、いるはずの家族がいない。
架空の人物と実在の人物が入り交じる。
その区別がつかず、すべて実在。
もしくはすべて架空。
僕は将来ボケ老人にならないために思考力を維持できるよう普段の生活は心掛けている。
「あれだよ、あれ」という表現を極力なくし、頭の中で言葉を巡らせる。
それでも「あれですよね~」「あれはいいよね」なんて、言ってしまうけど・・・。
それもボケ防止のために必要なことだと思っていた。
もしかしたらそれは逆かもしれない。
より頭の中を巡らせたり、想像力を発揮させる方が痴呆症に近づくのかもしれない。
アンソニー・ホプキンス演じるアンソニーは、
(これはワザと付けた役名?)
想像力が豊かでボキャブラリーも豊富。
知識人であったのは間違いない。
だからこそより面倒な老人となり、家族を困らせる。
時々、困らせたことに気づきながら・・・。
多分、これが現実なのかな?と彷徨ってしまうのだろう。
だからだろうか。
この面倒くさい父親に共感してしまうし、感情移入もする。
自分の父親くらいの年齢なのに。
僕は子供の立場のはずだが、気づいた時に父親と自分がオーバーラップする。
未来の自分が映っていると錯覚に陥る。
全然違う世界なのに・・・。
僕はボケて周りに迷惑をかけるくらいなら、とっとと死にたい。
その考えは変わらない。
しかし、勘違いしたまま自分勝手に現実を受けてめて死ねるなら、それも幸せかと。
映画を観て、そんなことを思ってしまった。
映画に国境はないね。
無料のKindle版で読ませてもらった。
実際にお金を払う価値は十分あるが、
時にはこんな読み方ができるのも電子書籍のいい点。
昨年7月に出版された書籍なので、まだまだ新刊本の範囲。
これからのビジネスを予測しているが、すでに多くは現実のものとなっている。
それだけ変化が速いのか、新しい常識が瞬間的に浸透していくのか、
ネットがもたらす、むしろSNSを中心とした新たな価値の提供はあっという間に広がる。
ただそれはかつでゼロだったものが1になるのではなく、
元々存在した何かが新しい価値として認められたことにもなるだろう。
僕が携わってきた営業の仕事も見方を変えれば「プロセスエコノミー」に近い。
都合のいい解釈かもしれないが、商品の値段、実績だけで問われるのであれば、
僕らのような営業は不必要。
そこに絡む人がいて、その人から買いたいという気持ちがあるが故、売れるサービス。
だから同じ商品でも優劣が生まれるわけだし、満足度も変わる。
そんなプロセスなんてどうでもよく価格のみで判断する方も当然存在するわけだが・・・。
ある意味、ネットで販売するか、対面で販売するか、
手段は異なっても結果は同じともいえる。
全てのモノが見え、誰にでも比較ができれば検索能力で事足りる。
僕だって購入するモノによってはそれで十分だし・・・。
ただそれは僕のような「乾いてる世代」だからいえること。
これから社会をリードしていくのは「乾けない世代」。
「達成」や「快楽」を最大の価値としていた僕らはやはりワンランク上の生活を求めていた。
それがある意味、成功と捉えていた。
それが「乾いてる世代」。
だが、「乾けない世代」が求めるのは精神的な要素で、
物質的なモノより内面的なコト。
SDG’sへの意識もその表れ。
配慮のない製品は購入しない。
そこも大きな違い。
供給側もそれを考えて提供しなきゃいけない。
だからといって必要以上に高額だと買ってもらえないし・・・。
マーケティング4.0か。
よりハイレベルなマーケティングが求められる。
一体、裏で誰が操っているのだろうか(笑)。
「プロセスエコノミー」という考え方が共感を生み価値を創造する。
納得できる要素は多い。
一方で著者は弊害も指摘する。
プロセスに価値を置き過ぎ過激化すればどうなるか。
手段の目的化。
確かにそうだよな。
そこは十分踏まえないと・・・。
尾原さんはいつも多くを教えてれる。
僕のブログも信頼を得るためのツールになればいいけどね。