これからも前向きに 名大社会長ブログ

カテゴリ「会社を想う 仕事を思う」の記事一覧:

名大社半生を振り返る その9

1997年からは記憶が鮮明になる。
というより30歳の時に日記を書き始めた。
大事なことは書き留めているので、忘れていてもその日記を基に紐解くことができる。

4月に娘が生まれた。
新たに部下がついた。
初めて女子の部下。
「女性も上手く使えなければ、いい上司にはなれない。」
社長からそんなことも言われた。

かなり調子が良かった時期だったと思う。
自分勝手に会社の中心にいると思っていたかもしれない。
それが後々、不幸を招くが、この時は知る由もない。

会社のスピード感に不満を持っていた。
古臭い体制の会社だと思い込んでいた。
当時は自己啓発本や独立起業を促す本も読んでおり、
自分はデキる人間だと思い込んでいた。

その頃、会社の名刺も縦書き1色のパッとしない名刺、
封筒も茶封筒で冴えないデザインだった。
その茶封筒に資料を入れて、システム手帳持って営業に出ていた。
広告代理店の気取った連中がやっていたこと。
いけ好かないヤツだったのかも・・・。
少しでもカッコよく見せたかった。

そこで社長に直訴して、名刺から封筒からすべて刷新した。
数名のメンバーと案出しし、会社に提案。
そのデザインは僕が社長になるまで使っていた。
社長になった時に再び名刺は作り替えたけど・・・。

他にも資料作成委員会、AV委員会などいくつかのプロジェクトに加わり企画面の仕事をしていた。
当時は学生向けのガイドブックも発行しており、その企画紙面も考えていた。
今の時代なら考えにくいが、そういったプロジェクトは夕方6時あたりからスタート。

日中は営業時間という認識で営業集約含め会議は6時以降に行うのが普通。
それが終わって夜8時。
そこから飲みに行っていた。
いや、もっと遅かったかな?

自分ではまっとうな意見を言い、積極的にアイデアも出していたつもりだった。
仕事ができると錯覚していた。

そして、会社のスピードに遅さを感じていた。
それが不満だった。
怒涛の30代。
果たしてどうなっていくのか。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その8

入社7年目(1995年)28歳の時に主任になった。
今の名大社でいえばサブリーダーのポジション。

驕った表現ではなく、その昇格は遅かった。
それまでに十分相応しい実績は出していた。
そんな見られ方は周りもしていたと思う。
自分もなぜだ、なぜだと思っていた。

その前後に直属の上司に言われた。
できれば山ちゃんとF(同期)を一緒に上げたいと・・・。
その同期の実績が伴うのを待っていたとのこと。

しかし、結果的に僕が先に昇格した。
それが原因ではないと思うが、しばらくして同期は退職した。

当時、名大社では主任は部下を持つことが前提。
僕も初めて部下を持った。
中途で入社した4歳年下のT。
いろんな経緯があり名大社に入社したのだが、とても優秀な人材。

最初に「同い年だけど新卒入社の先輩Yを抜け」と言ったら、
「そこは見てません。山田さんを抜きます。」
軽く言い切った。
口だけではなかった。

抜群の営業センスを持っていた。
1年目からかなり活躍したのではないだろうか。
僕との相性も良かった。
酒は飲めなかったが、2人でよく飲みにも行き未来を語り合った。

おかげで僕も評価されたし、僕の成績もよかった。
当時は年末に社員総会を行い、優秀社員の表彰をしていた。
いくつかある賞の中で最も栄えあるのが「名大社さん賞」。
その年、名大社を代表する社員がもらえる賞で分かりやすくいえばMVP。

その年は僕が受賞した。
当時では最年少。
役員(その5で揉めた人)と三越に行き、オーダーでブレザーをこしらえてもらった。
「三つボタンにしてください」と頼んだら「調子に乗るな!」と却下された。
派手なエンブレムも付いた。

社員総会で表彰され、着させてもらった。
挨拶で「三つボタンが良かった」と言ったら叱られた。
調子に乗ってはいけません・・・。

あのブレザーはどこへ行ったのだろう。
ほとんど着る機会はなかった。

主任になった一年間はかなり燃えた年だった。

翌年、大阪から何故かやってきた新卒Hが新たに部下になった。
関西弁丸出しで宴会ではメチャクチャ盛り上げる存在だったが、
クライアントでは全く喋れなかった。

そのギャップは面白かったが、成績は今一つ。
部下の育成の難しさを感じた年でもあった。
それでもTとHの3人のチームは勢いもあり楽しく仕事をしていた。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その7

先週の純粋な恋愛物語。
結構、反響がありましたね(笑)。

結婚したのが5年目、27歳の時。
バブルも崩壊し、少なからず影響を受けていた会社は売上を落としていた。
ピーク時からの社員数も減っていた。

当時のことは会社の記録としては残っているが、
僕自身がどこまで頑張っていたかはあまり記憶がない。
忙しくしていたのは事実。
僕の仕事も新卒事業をベースに会社の政策媒体にどっぷりと浸かっていた。

ちなみに1994年の標語は、
野性味、冒険心は日常性の眠りに反逆するみずみずしい企業の活力源である。
前社長が社員に求めるものを標語として掲げていた。

もう一つだけ難解な標語を紹介しておこう。
2001年は、
海岸線の傾斜は波打ち際に達し
そのまま 海に向かって没入している
くろずんだ荒涼たる海域に不安な眼を泳がせるのではなく
その場でくるりと後ろを振り返ればよい
われわれはそれで充分に知りえるのだ
波立つ水面下の意外ともの静かな海の形状を

さすが日本を代表する詩人のご子息だけのことはある。
僕も社長就任後は毎年、標語を作っていたが、とても真似することはできない。

とにかく野性味を求められた時代だった。
新しい商品も作っていたが、荒々しい行動が必要不可欠だった。

その中で揉まれながらも、独自の路線を歩んでいたような気もする。
新卒向け合同説明会の提案には自信があったし、それに付随する企画も自分で作っていた。
日産販売会社グループのイベントもその一つ。

愛知県や岐阜県の日産系のディーラーを集め、オリジナルのイベントを手掛けていた。
当時のキャラクターはイチロー。
各社との打ち合わせ、会場の手配、DM等の制作物の企画も全てやっていたんじゃないかな。
2回前のブログでぶつかった役員とはこの時はいい関係。
絶大な信頼を築いていたと思う。
多分・・・。

新卒事業に関してはガイドブックも発行していたし、連合DMも企画していた。
昔の人材系の人なら懐かしさを感じるだろう。
今の若手はピンとこないと思うけど。

20代後半は荒波に揉まれていたが、仕事もプライベートも充実はしていた。
それでもまだ何の役職もなく平社員のまま。
親しくしていた仲間は一人抜け、二人抜けていった時代。
自分の中にもどかしさを感じていた時代。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その6

いい時期は長く続かずバブル崩壊。
東海地区はその影響は少なかったものの、会社の業績は下がっていった。

入社4年目に僕は別のチームに移り、今村さんの部下になった。
(知っている人は知っている。これが今村さん最終日のブログ
何でも好き勝手やれる時期は去り、企業展を中心とした新卒商品を売る日々が続いた。
会社の政策媒体のノルマもしっかりと課せられた。

僕の志向も徐々に変わり、新卒採用をキチンと提案できる営業へとシフト。
おかげさまで成績も伸び、確か4年目で企業展は全社で2位の成績を収めた。
営業が30名以上の時代なので、褒められてもいいだろう。

ようやく仕事に自信を持て始めた時期かもしれない。
ちょうどその頃、嫁さんと出会った。
今回は軽くそこを触れておこう。

嫁さん(ここではNさん)はライバル会社の営業で、共通のクライアントを持っていた。
名古屋市港区にあるクライアント。
人事担当だったH部長が僕とNさんを気に入ってくれ、内定者との懇親会に呼んでくれた。
そこで知り合いになり、H部長に二次会にも連れて行かれ、話をするようになった。

その後もイベントの手伝いでちょくちょく会うようになり、
気になる存在になっていた。
携帯電話もなければメールもない時代。
もちろん自宅の電話番号も知らない。
分かっているのは名刺に書かれている会社の電話番号だけ。

あるタイミングで会社に電話をしてデートに誘った。
今思えばふざけた行為である。
会社の代表電話からデートに誘う社員を社長である僕は許すだろうか。
きっと許さない。

な~んて・・・。
許す、許す、それくらいの度胸がないと(笑)。

それをきっかけに付き合うようになり、1年半後、結婚式を挙げた。
ライバル会社のトップが揃う結婚式は妙な空気が流れていたんじゃないかな。

結婚を機にNさんは会社を辞めた。
しばらくして僕の名前はライバル会社の朝礼に出るようになった。
ライバル会社で働く大学の同期が教えてくれた。
営業部長が山田さんの話をしているよと。

「うちにいたNさんのおかげで、最近、名大社の山田は成績がグングンと伸びている。
それはNさんが営業をやり方を教えているからだ!」
それを聞いて、ふざけるな!と思った。

オレが新規開拓の仕方や営業手法を教えてことはあっても、教えてもらったことはないぞ。
怒り心頭、かなり憤っていた。
その当時は・・・。

振り返ると営業部長の朝礼は正しい。
現に僕の成績は伸びた。
結果として社長にまで上り詰めた。

彼女があげまんなのは間違いない。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その5

先週のブログを書いて、思い出したエピソードがあった。
前回はいい子ぶった感じを出したが、よく考えるとそんなことはなかった。
役員に対して随分と失礼な発言をしたことも。
若気の至りではあるんだけど・・・。

どんな飲み会かは忘れたが、若手メンバーと二次会で女子大小路にある中華料理店に入った。
会社がよく使っていたお店。
ビールと餃子を食べながらワイワイやっていると制作と内務の役員が入ってきた。
会社がよく使っていたスナックのママと女の子を同伴していた。

多分、それを見た瞬間、僕はイラっとしたのだと思う。

飲みながら
「うちの会社は儲かっているからなあ~。経費で飲めるんだよね~。」
「いいよなあ~、偉い人は・・・」
なんて大声で会話をしていた。

はっきりしないが、役員に聞こえるように言ったのは間違いない。
ある程度、時間が経った時に制作の役員が、
「ここは出しといてやる。」
「あっ、ありがとうございます!」
「ヤマテツ、ちょっと外に出ろ!」
顔色を伺うと怒り心頭。
ヤバいと思いつつも素直に従い、外に出た。

「お前、さっきなんて言っていた。」
「はあ、会社の話ですね・・・。」
「随分とエラそうなこと言ってくれるじゃねえか」
ヤバいと思いつつ、酔っていたし後には引けなかった。

「本当のことじゃないですか」
一緒に飲んでいた先輩が
「テツ、止めとけ」
と制止をしてくれたが、役員も僕もヒートアップしていた。

「誰が会社を支えてると思ってるんだ!」
「みんなじゃないっすか。」
そんな会話かどうかはともかく堂々巡りの言い争いをしていた。
妙な正義感ですね・・・。

次第に雨が降ってきた。
もう一人の役員が
「Wさん、もう止めとこ」
と諭すが、収まりきらない。

「ヤマテツ、二度とお前の仕事の依頼は受けない。分かったな!」
これで終わったとは思わなかったが、明日からかなり厳しくなるなと覚悟はした。
どう仕事をやっていこうか・・・。

冷静になり、翌日、恐る恐る会社に行き、
「昨日はすみませんでした。」
と詫びると
「俺も言い過ぎた」
と役員も反省した様子。

何のお咎めもなかった。
その後、役員とは一緒に組んでいくつかのイベントを行った。
僕はその記憶があるのだが、役員は忘れていると思っていた。

引退された後も覚えられていたようだ。
前社長の三回忌の際、昔話になり、
「あの時、テツは生意気だったな・・・」
と笑っていた。
「あの時はすいません。覚えてたんですね・・・」

これもいい思い出なのかな。
その元役員も3年前に亡くなった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その4

先週紹介した「キャンパス万歳トライアル」で思い出したことがあった。
このラジオ番組は2年で終了したが、2年目はゲストを招いてのトーク中心の番組となった。

ある時、原田知世さんがゲストに入ることが急きょ決まった。
パーソナリティーは僕に知らせようと会社に連絡をくれたのだが、すれ違い。
連絡が取れた時には出演は終わっていた。
もし、あの時、ラジオ局入りに間に合い、
原田知世さんと意気投合していたら、全く違う人生になったかもしれない。
タイミングは逃しちゃいけませんね・・・。

入社3年目頃(1992年)、会社の雰囲気は必ずしも良くはなかった。
トップ、幹部と若手と隔たりがあり、会社に否定的な社員が多かった。
そんなグループもできていた。
営業に出るとどこかに集まり、一日中、サボっていた。

僕も正直、サボったこともあったが、このグループには属していなかった。
大きな違和感を持っていた。
理解できなくもなかったが、会社を完全否定するのはおかしいと思っていた。
ただ隔たりを感じていたのは事実で、
そこを何とかしなきゃというのは後々の課題だったと思う。

この頃、会社は多くの商品を抱えていた。
自社媒体である「企業展」「転職フェア」。
それに毎週のように朝日新聞、毎日新聞の買い切りの企画があった。
Bing、DODAにもノルマが設定されていた。

バリバリの営業会社であったのは事実。
手ぶらで会社に戻るとどやされるので、夜まで時間を潰す社員もいた。
待遇は悪くはなかったが、徐々に退職者も出始めていた。

僕が所属していた営業推進課も上司とトップの折り合いが悪く、間もなくチームは別部門に移った。
上司はしばらくして退職。
ただこのチームの結束は固く、今でも年1回は集まって親交を深めている。

当時の最初の上司は少し前に某新聞社を定年。
同じチームの仲間はそれぞれの会社で頑張っている。
特に2歳上の先輩は今では名古屋で有名な食品会社の常務取締役。
チームは違うが一つ下の後輩で有名人もいるしね・・・。

チーム4人でよく飲みよく食べ、よく歌った。
一人暮らしをしていた僕のワンルームマンションに泊まることも多かった。
一緒に出社するとバレルので、ワザと時間をずらした。
仕事はハードだったが、夜も元気だった。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その3

入社から3年間、僕は営業推進課に在籍。
いろんな企画を行っていい部門だったが、他の新人や若手と同様、飛び込み営業の毎日。
研修は1か月で終わり、雑誌などの媒体からリストアップをし、
朝から晩まで飛び込み営業をしていた。

バブル後半期とはいえ世の中は超売り手市場。
どこの企業も人手不足に悩んでいた。
かといって新人がすぐに契約を取れるわけもなく、断られる日々が続いた。
門前払いも多かった。

その繰り返しの行動が結果として精魂逞しくなり、どんな企業であろうとビビることなく、
どんな偉い方であろうと緊張することなく話ができるようになった。

初契約は岐阜のゴルフ場のTVCM。
これは地元のご縁を頂いたような仕事で実力とは言えない。
営業に出て2か月ほど経った時に中区にあるアパレルメーカーからDODA1ページの契約を頂いた。

デザイナーに自分の想いを伝え出来上がった広告は今でも記憶にある。
当時、付き合っていた彼女と本屋に出掛け雑誌を一緒に見た。
自分の実力で初めて成し遂げたという気持ちが強く嬉しかった。

その後、継続的に新規契約が取れるようになっていった。
半年で同期の女子は消えたが、他の2人とはいいライバルだった。
誰しもが自分が一番できると信じ競い合っていた。
とはいえ4年後に一人退職し、7年後にもう一人退職したので、
気づいた時には同期はいなくなっていた。

それは同期だけではない。
今、名大社の社歴で僕に一番近いのはナンバー2の高井。
それでも8年か9年の開きはある。

入社の翌年は5名、その次は3名、その次は6名。中途採用も随時。
多分、それくらい。
毎年後輩は入ってきたが、誰も残っていない。
会社の激しさを物語っている。

残ったヤツが経営を任されているだけかと思うかもしれないが、
そのあたりのことは順を追って話していきたい。

若かりし頃の記憶でいえば、入社2年目に名大社でFM番組を持った。
リクルーティング広告が流行っていた時期。
「キャンパス万歳トライアル」というFM愛知の深夜番組で、
僕は担当としてクライアント開拓と番組制作を行っていた。
番組制作といってもパーソナリティーと一緒に大学のサークルを取材し、
それをラジオに乗っけるだけのこと。

結構、ナンパな仕事。
一時期は毎週そんなことをやっていたので、他の営業から見れば、
「あいつ、遊んでるな・・・」と思われていたかも・・・。

バブル期だからこその思い出。
そうそう、この頃、会社は絶好調で売上は今とは比較にならない。
利益はともかく新聞広告主体の売上だったので金額としては大きかった。

新卒向け合同説明会「企業展」も成長著しかった。
入社2年目には研修旅行でハワイにも連れて行ってもらった。
全額会社負担。
事前に小遣いが10万円支給された。

悲しいことに僕はその小遣いをハワイに行く前に使ってしまい、
旅行時はすでにお金はなかった。
ハワイでは先輩らに奢ってもらっていたような・・・。
社長にもめぐんでもらったような・・・。

けしからん若者ですね。

続く・・・。

一年間ありがとうございました!

2021年も明日で終了。
この12月は一昨年並みのスケジュール(あくまでも夜・・・)で忙しかった。
しかし、一年通して振り返れば、やはりコロナに振り回された年だった。

それが日常化する慣れは生活においてありがたいが、決して嬉しいものではない。
ニューノーマルかもしれないが健康的ではない。
そんな考えは古いのだろうか・・・。
オミクロン株の脅威もあるが2022年は健康的でありたい。

毎年年末に一年を振り返ることをブログのルーティンにしている。
誰のためでもなく、ふと自分が過去どうだったか記録を残しておくため。
恥ずかしい振り返りを読者に晒し公開処刑を受ける。
そして、自分を奮い立たせる。

今年の目標は大きく2つに分けた。
一つは前年と変わらない。
もう一つはこの先の10年を見据えて立てた目標。

前年と変わらない目標は、
・人を育てる 
・仕事を任せる 
・未来を創る 
・自分の時間を持つ 
・ルーティンを維持する

まとめて書くと、この1年は仕事を任せることは徹底してきた。
組織も刷新し役割も変化した。
それに伴い、人は育った。
特に幹部メンバーは育ったと思う。
決して育てたわけではない。

未来に関してはまだまだ。
新事業の取り組みやNFBの新展開はあったものの限定的。
継続課題といえよう。

自分の時間を持つことができた分、ルーティンも維持しやすくなった。
仕事を任せていく分、不思議に外からいろんな役割が降ってきた。
幹事、委員長、副支部長・・・。
その関係性は有り難いが、当初はこれ以上対外的な役割は増やさないことだった(笑)。

ルーティンはブログでも発表している通り。
映画50本なんて一昨日のブログでも書いたが、目標以上の出来。
(Amazonプライムを含めると59本)
ランニングの月間100kmRUNも11ヶ月達成なんて、過去ではあり得ない。
そう思うと読書は54冊としょぼいか。
(今日、明日で2冊増やす・・・)
そんな感じだった。

もう一つの10年を見据えた目標は
・責任を果たす、責任を取る 
・何かしらの影響を与える 
・自らへの投資、学び(学習機会)の継続

これについてはほとんどがこれから。
数ミリ程度の進捗でしかない。
来年は大きな一歩にしたい。

ざっと簡単にまとめてしまったが、総じて不甲斐ない一年だった。
自分自身でじれったさを感じながら、それを敢えてよしとしたり。

それでも無事に一年を過ごせたことには感謝。
頑張ってくれた会社のメンバーにも感謝。

もちろん家族にも・・・。
昨日は無理してご馳走しました(笑)。

一年間、ありがとうございました。

名大社半生を振り返る その2

僕が名大社に入社した1989年はバブル絶頂期。
世の中が浮ついていた時期で、少なからず僕も恩恵を受けていた。

この数年前から名大社も業績が向上し、入社時はイケイケ感が漂っていた。
入社の段階で社長から会社の好調さを伺っていたので、
バラ色の社会人生活を勝手にイメージしていた。
浅はかな若者だった。

僕の同期は3名。男子2人、女子1名。
女子は半年くらいで消えていたかな・・・。

当時、名大社の主な業務は新聞の求人広告。
それも案内広告と呼ばれる行数物の広告。
業界内では三行広告と呼ばれていた。
天地15文字の広告を3行から出せるという意味合いだろう。

今も存在するが、名大社でもほとんど対応していない。
原稿を書ける営業もほとんどいない。

バブル期は超売り手市場で、新卒採用も中途採用も企業側は苦戦していた。
名大社はのちに看板商品となる企業展(合同企業説明会)を展開していたが、
当時のシェアは小さかった。
圧倒的に新聞広告の売上構成が高く、また雑誌広告にも力を入れていた。

僕が入社した年に発行されたのが今は無き学生援護会のDODA。
DODAといえばパーソルキャリアの人材サービスだが、もとは求人雑誌。
当時のCMを覚えている方はいるだろうか。
「タンタカンタン、タタタッ、デューダ、デューダ」
という大地康雄さんのCMを。
学生援護会が先行するリクルートのBingに仕掛けてきたのだ。

そのDODAを名大社として積極的に販売する政策だった。
僕が配属された営業推進課は
「新聞はやらなくていいから、営業広告と新しいものをやれ!」
と言われ、メインの新聞広告ではなく、そちらをせっせと売り歩いていた。

僕のキャリアのスタートとしてはラッキーだった。
元々、新聞広告には興味はなく、できるだけ新しいことをやりたいと思っていた。
そもそも広告代理店を志望したのもTVCMのプロデュースやイベントをやりたかったから。
求人広告にはさほど興味を持っていなかった。

いかん、こんなペースで書いていくと2年くらい掛かってしまう。
すいません。
もうちょっと端折って書いていきます。

続く・・・。

名大社半生を振り返る その1

今日で名大社を任され12年が終わる。
明日から13年目がスタートする。

1989年に入社して33年弱。
2/3が社員として過ごし、1/3を社長として過ごしている。
長いようで短い。
短いようで長い。

僕の名大社の半生なんて大したものではない。
威張るものでもない。
それでも喜びも悲しみも経験し、多くの乗り越え、今に至っている。

世の中の成功した経営者からすれば、足りないものだらけ。
伝えられることも限られている。
しかし、自分が辿ってきた道を振り返るのもいい機会。

このブログで33年間の半生を綴ってみようと思う。
3回で終わるかもしれないし、半年くらい掛かるかもしれない。
先の見えない作業だが、当時の記憶を引っ張り出しながら、自分を美化せずに書いていく。

30歳からは日記をつけているし、半年に一度行われた幹部研修会も議事録が残っている。
そこを紐解きながら、どんな仕事をしてきたか、
何を考えて行動していたかをできるだけ披露していく。
プライベートなことは極力書かない。
必要最小限に留めておく。

今も当時の日記を読みながら振り返っているが(昨日現在で2008年)、
家庭内でいかに機能していないかが克明に書かれている。
特に30代は酷かった。
家庭のことは嫁さんに丸投げし、子育ても全て任せてきた。
罪滅ぼし程度の夏休み、冬休みの旅行と場当たり的な休日の遊びしかなかった。

今のご時世を考えると完全に家庭人失格。
よく我慢したと思うと共に子供たちを立派に育ててくれた。
ブログで振り返る前に、まずは嫁さんに改めて感謝。

あくまで仕事中心の日々だったが、言い訳はできない。
今思えば、自分でもよくあんな生活ができたなと感心してしまうほど。
後悔はしていないが、大いに反省はしている。

30代のハードな日々はいずれアップされるだろうが、まずは謝罪と感謝から・・・。
いかん、何も振り返らないうちに初回が終わってしまった。

次回より入社からの出来事を書く。
毎週月曜日は半生を振り返るブログ。

こちらのシリーズもよろしくお願いします!