昨日のブログの続きである。
松下資料館の後は、京都駅前にあるセミナー会場へ。京都訪問の本来の目的である株式会社ヒトミの人見社長の講演に出向いたのだ。
元小学校教諭の原田良子さんが主宰する「生い立ち学」。その第1回の講師として登壇されたのが人見社長。
自らの生い立ちを隠すことなく建前もなく、ユーモアを感じさせながらも真摯に語られた。幼少の頃のハンディを克服され、神童と呼ばれながらも挫折した学生時代を過ごし、多くの人との出会いから価値観を創り、自らを成長されてきた。その生き様が「生い立ち学」と呼べるのだろう。
人見氏は僕と同級生。しかし、その背景は全く異なる。僕は勉強は大したことはなかったが、健康で体だけは丈夫。小学校も皆勤で病気知らず。そこだけが取り柄の子供だった。
人見氏はその真逆。自らのハンディを学問という強い武器で跳ね返されてきた。何も考えずに過ごしてきた人生とずっと頭を使ってきた人生。そこには大きな差があり、その差があるだけ尊敬に値する。
そんな人見氏と僕が共通する点と言えば、「人との出逢い」。
そのレベル差はあるものの、多くの人と出会いに影響を受け、現在に至っている。だが、出会いは勝手にこちらにやってこない。自分が行動し、相手にぶつかった時、初めて本当の出会いとなる。
名刺交換を一度行ったくらいでは本当の出会いとは言えない。そんな事を改めて教えてもらった。自分より優秀な方とお付き合いさせてもらうことは、相手がどう感じるかはともかく自分にとってはありがたいこと(笑)。
この講演でも使われた森信三先生の言葉
「一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時に。ただし内に求める心無くば、縁は生ぜず」
まさにこの日と言えるだろう。
人見氏とはこの後行われた懇親会だけでなく、ホテルのbar、京都の有名ラーメン店ラーメン第一旭までご一緒頂いた。
中津川の名経営者と一緒に12時過ぎに行列に加わりながら・・・(笑)。
いずれも話題の中心は経営や仕事、組織のこと。僕はそんな時間がとても好きだ。単なる酔っ払いと思われるだろうが、貴重な時間だ。
京都の夜に感謝。お疲れさまでした。
2014年6月4日
京都にて 「生い立ち学」を学ぶ
2014年6月3日
京都にて 松下資料館に行く
ちょうど1週間前の話である。盟友であり愚か者副本部長である櫻山さんと京都に出掛けた。観光ではない。言い訳ではなく本当に観光ではなく、経営のお勉強に出掛けたのだ。
目的は2つ。京都駅近くにある「松下資料館」見学と京都の名経営者と呼ばれる株式会社ヒトミ人見社長の講演を拝聴するためにである。今日のところは「松下資料館」。
僕は1年前に「松下幸之助歴史館」へお邪魔したが、こちらは初めて。こんな立地のいい資料館が電話一本するだけで無料で利用ができる。
迎えてくれるのはもちろん幸之助氏。「神様の女房」の奥様も一緒に出迎えてくれる。ドラマとイメージは全然違うがそんなことはどうでもいい(笑)。
入館しての第一印象はイオン歴史館とそっくり。同じ方がデザインしたのだろうか・・・。
いくつかのテーマ(経営、人材育成、生き方など)に分かれており、それぞれにビデオの視聴コーナーがある。これをすべて制覇しようと思うと一日掛けても終わらないだろう。僕は以前にも訪問されてことのある櫻山さんのおススメを視聴。
部下の方が幸之助氏との関わりを語られる。その大半が叱責を受けたエピソードを語られている。仕事のやり直しをさせられたとか給料を返せと言われたとか、結構理不尽な話が多かったりする。それも相当過激で感情的だったりする。
しかし、部下の方は実に嬉しそうにそれを語っている。本人にとってはいい思い出になっているんだろう。誰に叱られるかによって本人の受け止め方は異なる。嫌いな上司に叱られるのであればイヤな思い出にしかなっていないはずだ。
そして、大切なのはリーダーとしての在り方。
リーダーの心得十カ条
1.仕事・商売を公事と心得る
2.すべて最終的に自分の責任と心得る
3.率先垂範とする
4.人材育成を重要任務と心得、実践する
5.部下が働くのを邪魔しない
6.適性、実力に見合った仕事に取り組む
7.人情の機敏に通じる
8.いざというときの覚悟を日頃からもつ
9.心配こそ生きがいと心得る
10.仕事を好きになる
果たしてどれだけ実践できているだろうか。う~ん、反省・・・。
それにしてもこの立派な施設。パナソニック社員と思しき団体客以外は誰も入館者がいない。庭園シアターは男2人で貸切であった。実に勿体ない。
これだけ生きることについて学べるのであれば、修学旅行のコースに含めてしまえばいいのにと思ってしまった。
結局、開館時間ギリギリまで滞在し、勉強させてもらった。
こんな愚かの行為もしながら・・・。
松下政経塾で幸之助氏が実際に座っていた椅子。こんな表情をしてたんじゃないかな・・・。
ありがとうございました。
2014年6月2日
名大社ゴルフ合宿の巻
先週の土曜・日曜は会社のゴルフ合宿。最近、やたらゴルフを始める若手が増えたため初めての試みとして行われ、9名のメンバーが参加した。
合宿といっても、土曜日にゴルフして、そのまま温泉旅館に移動し、飲んで食べて騒いで泊まって、翌朝解散するだけ。
走り込んだり、ゴルフ理論を学ぶわけではない。全員が自腹参加のため、できるだけお値打ちプランがいい。
幹事である名大社の哲学者が選んだのは名松・ゴルフ倶楽部と榊原温泉「清少納言」。あの金額でこれだけ楽しめれば大いに満足。
ゴルフ場はリーズナブルなこともあり激混み。我々のスタートはなんと13時。終わったのは18:30頃だったため、ほぼ日没に近い。
僕を含め全体的なレベルは低いので、あえてゴルフの内容は語らない(笑)。みんなで楽しくラウンドできればいいじゃないか。きっとそのうち腕も上がってくるはず。きっと・・・。従って集合写真もない。
ラウンド後、瞬間的に風呂に入り、旅館へ移動。到着した瞬間から宴会に入る。ゴルフ場での集合写真がなかったので、酔っ払う前にまずは全体でパチリ。
しばらく食事を楽しんだ後、表彰式に入る。
最初は落ち着いていたものの、どんどんテンションが上がってきた。
悔しいので優勝者の写真はアップしない。
僕はちなみに3位。う~ん、納得がいかない(笑)。その後も宴会は盛り上がり、いつものように怪しい方向に進んでいった。
二次会は旅館の地下にある昭和の香りたっぷりのスナック。貸切状態だったため、さらにテンションは上がっていく。僕のスマホには沢山の写真が保存されているが、とてもじゃないがアップはできない(笑)。
こうやって一日過ごしてみるとゴルフ合宿は仮の姿で、とことん飲むために泊まりにきたような感じが・・・。まあ、それでもみんなが楽しく過ごせるとすれば、よしとしよう。
これからも年1回はゴルフ合宿をするらしい。参加するメンバーも少しずつ増えてきそうなので、年寄り、いや失礼、ベテランから若手まで一緒に盛り上がっていければいい。
今日から1週間がスタート。
僕は今日は会社には行かないけれど、みなさん、仕事ガンバってくださいね(笑)。
2014年5月30日
社長になるまでのこと 4
12月上旬、急に社長宅に呼ばれた。経営資料を携え最終的な詰めを行った。そして、その時に僕が正式に会社を引き継ぐことが決まった。
驚くほど呆気なかった。
対外的には翌年の株主総会後だが、実質は12月21日より全ての決裁権を自分が持つことがその場で決定した。社長は体調を崩していたこともあり、自ら対応を早めに決断したのだろう。
さすがにその夜は眠れなかった。布団の中にいても目が冴えるばかりだったので、当時放映されていた「坂の上の雲」の録画を観た。
この世界に比べれば、まだまだ小さい事じゃないかと自分を納得させていた。そんな気持ちで自分を維持しようとしていた。
寒さが堪えたのか、結局、風邪を引いてしまったことを記憶している。
とりとめなく書いてきたが、これが僕が社長になるまでの経験してきたこと。
帝王学を学んだわけでもなく、経営者の準備をしてきたわけでもない。それでも会社は成り立つ。会社は毎日動いていく。
その年の大晦日の日記にも書いていたが、この一年は僕の人生の中で最も変化の激しい、スピードの速い一年だった。何年分かを一年で過ごしてしまったようだった。
トップを任される一年前に飛び込み営業をしている奴なんてあり得ない。
ここで会社以外のこと少し・・・。
社長を引き継ぐ事が決まった時、僕は実家と嫁さんの実家に挨拶に出向いた。僕の実家は岐阜で農業も含め自営をしている。僕は三人兄弟の長男。父親はいずれ息子は戻ってくると期待していたと思う。
僕が実家に挨拶に出掛けたのは、その期待を完全に裏切ることを意味していた。僕自身、そんな感じで思っていた。僕は父親に、これから会社をやらなければならない。家業はやれないとそんな様な話をした。
父親は「会社のことはよくわからんけど、あんばようやってちょ。」とだけ言った。”あんばようやってちょ”と言うのは岐阜弁で、”しっかりやってくれ”という意味。その言葉を聞いて僕は安堵とし父親の大きさに感謝した。
そして、嫁さんの実家にも挨拶に行った。その一年前、義父を癌で亡くしていた。僕は義母にこれまでの事を話した。
「これから会社を任されることになりました。家庭の事は今以上にないがしろにするかもしれません。もしかしたら、最悪の状況に引き込んでしまうかもしれません。嫁にも子供にも迷惑を掛けるかもしれません。」
そんな僕の言葉に義母は言ってくれた。
「天国に行ったお義父さんは喜んでいると思うよ。哲也さん、何も心配することなく頑張ってください。」と・・・。
僕は涙が出るくらい嬉しかった。結局、僕は周りに支えられて生きているに過ぎない。
支えてくれたのは嫁さんの存在もあるだろう。不思議なことに僕がどんな状況、立場であろうと何も変わらなかった。
単純に僕に関心がないだけかもしれないが、僕が役員を降格になった時も、給与が半分になった時も、社長になる時も何ひとつ変わらなかった。
「あら、大変、どうしましょ~。」と呑気に言うくらいで態度はいつも同じだった。そんな態度に僕は救われたのかもしれない。
長々と書いてきた「社長になるまでのこと」。
思い出したままを感情的に書いているので、どこまで伝わったかわからないが、今、こうしてこんな事を書けるのも幸せなこと。
改めて充実した毎日に感謝しなければならない。
<追記>
昨日までのブログでも多くの方から温かいコメントやメッセージを頂いた。このブログを書くにあたっては、会社の恥部を晒すこともあり迷いもしたが、この事実は会社の歴史としても残しておかなければならないし、知ってもらうことも必要だと考えた。それがあって今の姿があるのだから・・・。
僕はあくまでも「中継ぎ」である。理想を言えば、全盛期のドラゴンズの浅尾のようにしっかりとマウンドを守り、勝ったまま次の者に引き継がねばならない。それが最大の使命だ。
この実力もないボンクラ社長が当面会社の先頭に立っていくことで、周りには迷惑を掛けていくだろうが、これからも見捨てずにサポート頂きたい。
また、明日以降、このブログもただの愚か者ブログになってしまうが、引き続きご覧頂けるようお願いしたい(苦笑)。
ありがとうございました。
2014年5月29日
社長になるまでのこと 3
多分、うちの会社に詳しい業界の方は思っていたと思う。
トップ、ナンバー2のいない名大社は終わりだと・・・。実際にそのような声は僕にも届いていた。そんな時期での決断だった。
そこから社長とのやりとりが始まった。100%の信頼をされていたわけではない。
「もしかしたら、こいつが会社を潰すかもしれない。自分が作り上げてきた会社を他人が潰すくらいなら、解散した方がまし。」もしくは「私物化して会社をメチャクチャにするかもしれない。」そんなふうに思われていた。
お互いに意見は交わすものの、多くの場合は持論をぶつけられ、そこから前に進むのは難しかった。
社員もきっと不安だったはず。ある時、右腕となる社員とサシ飲みをした。会社の今後が話題の中心だったが、右腕は僕に聞いてきた。
「哲さんは本当に会社をやっていきますか?途中で辞めたりしませんか?」当然ある疑問だろう。僕はこれまでのこと、今回の決断のこと、多くの事を頭に巡らせながら答えた。
「大丈夫。辞めない。」「なぜですか?」
「俺は今まで何かを途中で辞めたことがない。学校も塾も部活もアルバイトも一度決めたことは辞めたことがない。30歳から始めた日記も今やってるマラソンも辞めていない。辞めた経験がないんだ。だから大丈夫だ。」
チープな論理だった。それでも説得力は持っていたようだ。
右腕は「分かりました。納得しました。」と言って、後は何も聞かなかった。それは右腕に言った言葉でもなく、自分自身に向けて言っている言葉だった。
そんな状況でも会社は動いている。自らも営業し、数字が思うように上がらないものの、組織は鼓舞していかねばならない。同時に経営計画書を作成していく。今の赤字状態からどう脱却するか。コストダウン、新商品の開発など黒字化するための道を探っていた。苦しい時間であった。
最大のコストダウンはオフィスの移転。創業以来、40年間、栄にある中日ビルにオフィスを構えていた。徐々に拡張していったため、結構なスペースもあった。そこから移転で大幅に固定費はカットできる。
しかし、40年間暮らしてきた場所を安々と離れることはトップの感情として許しがたいことでもあった。ここの説得が難航したが、最後には理解してもらうことができた。
秋頃は、社長とそのようなやりとりを繰り返しながら、会社存続に向け話し合いを続けていた。ある時、急きょ呼び出され、二人で飲むことになった。これまで一度もお邪魔をしたことのない洒落た小料理屋だった。
どんな話になるかは想像ができていた。僕自身、覚悟もできていた。どんなことがあろうと会社を守る。自信も根拠もなかったが、その気持ちだけは強かった。
社長の懸念材料は多かったと思う。一番大きな要素が会社は誰のものになるかという点。「お前は会社を自分のものにするつもりはないか?私物化しようとしていないか?」
そこははっきりと答えた。
「ありません。もし、そんな様子を少しでも感じるようであれば、クビしてもらって構いません。」自分でクビを切りだしたのは初めてだった。
これまで何度もダメ社員の烙印を押され、危うい立場を過ごしてきたが、自らキッパリ言うのは初めてだった。定かではないが、この言葉が社長の気持ちを変化させたのかもしれない。
そして、僕は11月に重要事項を決定した。冬の賞与を一切支給しないことに決めたのだ。前年も業績は悪かったが賞与がストップすることはなかった。過去も一度もなかったはず。
それを僕が決めた。ただでさえ給与が減り生活が苦しい状態でその決断は社員には本当に申し訳なかった。心が離れる社員が増えるのも予想された。
全ての現場を任されていた僕は全員の前で詫びた。
誰ひとり非難する声は上がらなかった。会社は酷い状況だったが、夏以降、誰も辞めなかった。さすがに冬の賞与の件で退職者も出るだろうと覚悟したが、その時も会社を去る者は誰もいなかった。
僕はそれが一番嬉しかった。
会社は何とかなると思えたのも、そんな仲間の存在だった。
賞与をゼロにしたことで社長は僕にすべてを任せようと決心したようだ。
(続く・・・)
2014年5月28日
社長になるまでのこと 2
実際に僕も手取りの給与ではとてもじゃないが生活はしていけない。完全な赤字。幸いにも蓄えがあったため、貯金を切り崩しながらの生活だった。休日にバイトをしようと真剣に考えていた。
若手社員はそこまで厳しい待遇ではなかったが、会社に対してのロイヤリティは完全に失くしていた時期。不安しかなかっただろう。
組織全体もギクシャクしていた。社長とナンバー2との関係性が悪化した。少し前から一枚岩に思えた2トップの関係が怪しくなっていた。
詳しい内容はここでは書かないが、結果的にナンバー2は役員を降り、しばらくして退職をした。現場のリーダーを失くしたのだ。営業部門の一つを任されていた僕が先輩を差し置き全体を仕切ることになった。
ナンバー2が役員を降りる頃、社長の会社に対する方向性が定まってきた。高齢であった社長は自らの引退を表明し、3つの中から選択することを考えていた。
「会社の自主解散」「会社の売却」「社員が引き継ぐ」。
「会社の売却」は社長の意に反する面もあり、選択肢から消えていた。残すは2つ。2つとした時点で社長の考えはある程度、決まっていたようだ。
「会社の自主解散」。今なら社員に退職金を払って処分することができる。それが一番安全策という判断であった。
誰かに任せてもいいという話もされていたが、本意とは感じれなかった。それに相応しい人物はいなかった。
幹部会でその話を切り出したわけだが、僕は自主解散の判断はやむを得ないと正直思っていた。特に反対もしなかった。トップがそう判断するのであれば仕方ないと結構冷めていた。
幹部会終了後、ナンバー2が僕を個室に呼んだ。
「哲、なぜ手を挙げない。お前しかいないだろ。」と言われた。僕は理解できなかった。つい数か月前まで、僕は組織から外れ、ほとんど窓際にいた人物。クビに近い存在ではなかったか。どうしてそんなことを言われるのか当初は理解できなかった。
このブログを書くにあたり、その当時の日記を読み直してみたが、内容は酷いもの(苦笑)。疲れた、疲れたという泣き言とトップの非難ばかり。前向きさは微塵も感じられない。情けない話だが健全な状態ではなかった。
しかし、それは僕だけではなく全社員が同じように感じていたのかもしれない。
もしかしたらナンバー2の一言から真剣に考え始めたのかもしれない。それは今でも分からない。ただその頃から、会社をどうすべきかと真剣に向き合うようになってきた。
「自主解散」という選択が本当に正しいのか。
一生懸命働いている社員はどうなる?名大社を信頼してくれるお客さんを自分勝手な論理で裏切っていいのか?本当にそれが正しいのか、自分の行動はそれでいいのかと何度も何度も自問自答した。
次第に明確になってきた。そして、答えがはっきりした。「自分がやる」という解だった。
会社全体にそんな雰囲気が少なからずあったと自分勝手に感じていた。それが後押ししてくれた面もあるかもしれない。
だが、その判断は自分に最大のリスクを与えることになる。現時点で業績は最悪。売上も前年比3割である。3割ダウンではない。ワークシェアリングを実施しているとはいえ、赤字が続いていた。
このままの状態であれば、いずれ破たんを招くことになる。無借金企業といえどもあっという間に債務超過に陥ることもある。尊敬する先輩にも揶揄された。「どろ船の船長になるのか?」と・・・。
(続く・・・)
2014年5月27日
社長になるまでのこと 1
今でも時々考えることがある。
もしあの時、自分が引き受けていなかったら、会社はどうなっていたのだろうかと・・・。少なくない確率で会社の存在はなかった。
そうだとすると、現在、共に働く仲間、名大社を支えてくれるクライアントやユーザー、そして、僕がこの間、ご縁を頂いた知人やネットワークの存在もなかった。
あの時の決断は間違いではなかったと思うと同時に今、こうして毎日を過ごせることに改めて感謝。
本日、株主総会を行い会社を任され5年目を迎える今、いい機会でもあるので、当時の出来事を改めて振り返ってみたい。
役員を降格になったことは昨年同時期のブログに書いた。2009年がスタートした時は悶々とした状態で仕事をしていた。前年のリーマンショックで会社の業績は急降下。過去一度も経験をしたことのない落ち込みを日々の営業活動の中で実感していた。
それでも会社を辞める気持ちは不思議と消えていて、健康的な状態とは言い難いが真摯に仕事に向き合っていた。しかし、会社の雰囲気は最悪。退職する社員は後を絶たず、暗い雰囲気が全体を覆っていた。
組織の中心から外されていた僕は、会社を客観的に見ながらも一人黙々と仕事をする日々。自分に課せられた仕事をこなすのみだった。
だが、自分の環境も徐々に変わり始めてきた。社長やナンバー2にほとんど相手にされない日々から少しずつ意見を求められるようになってきた。単純に組織が疲弊していたのが理由だったのかもしれない。
そして、期が明けた4月に営業部門を任される人事が発令された。
「何という気の変わりようだ」と僕は半信半疑でしかなかったが、久々に部下を束ねることになり気持ちは盛り上がりつつあった。しかし、業績の低迷は変わらない。全く先行きの見えない時間を過ごしていた。
僕が代わる前に部門を率いてきた若手のリーダーはそれまでの態度と一変し、あっという間に会社を去っていった。
あれだけトップに忠誠を誓い、部下に対して罵倒していた存在はいとも簡単に会社を辞めた。その人事に納得できなかったのか、会社に愛想が尽きたのか、先行きに期待感がなかったのかは分からないが、僕は会社から逃げたとしか感じることはできなかった。
営業だけみれば僕よりは格段に優秀。後輩だったためいろんな話もしてきたが、それ以降は一切に連絡を取ることはなくなった。
そして、5月のある日、数名の社員と社長宅に呼ばれ、食事をすることになった。かなり重要な話がでることは覚悟をしていた。一つはワークシェアリングの実施、もう一つは僕の役員への復帰だった。
役員の復帰といえば聞こえはいいかもしれない。しかし、会社が最悪の時期にその役職は責任が重い。しかも、ワークシェアリングの中味は半端なかった。次長以上の役職は給与半分、出勤半分と大胆なもの。
僕の場合、給与半分にわずかな役員手当、出社は自由、すなわち休みはなしということだった。割の合わない仕事だった。会社は助成金の申請をしていなかったため、次長より上の役職者の生活は厳しかった。
(続く・・・)
2014年5月25日
世界最古の企業に学ぶ
23日(金)から今日までは東京でファミリービジネスについて学ぶ。
一昨日は「世界最古の企業 金剛組」というタイトルで講演を拝聴した。金剛組が以前ビジネス誌で紹介されていて、世界で一番古い会社であることは知っていた。
宮大工の集団で四天王寺をはじめとする社寺の建築を行っていたことを知る程度だけだけど・・・。今回はその背景や事業継承について多くの学びを得た。
そもそも日本は伝統的な企業が多く、創業200年以上を有する企業は3113社だという(出所によって多少異なる?)。おとなり韓国はゼロ、中国も64社しかない。2位のドイツも1563社でダントツ1位。
その99%がファミリービジネス(同族企業)というから日本がいかにそれに支えられているかはデータだけでも認識できる。
その中でも最も歴史があるのが金剛組。創業が578年だから1400年以上続いている。実際には2006年には高松建設に株式譲渡されているので、ファミリーとは言い難いが現存では間違いないようだ。
(ここ最近はドロドロした部分が多いようだけど・・・。あまり語らないでおこう(笑))
同族企業がいかに継続するかは、その家訓や創業の理念がいかに浸透し継承されているかが重要だという。もちろん外部環境も大切で、韓国や中国にファミリーが少ない理由は戦争が多いなど民族間の争いが絶えない背景もあるとのこと。
NHKドラマ「黒田官兵衛」の世界もあるが、国民全体をぶち壊す争いではないことも大きい。そしてもっと大切なのは老舗は何にこだわるかを明確にできているかどうか。
金剛組は社寺の建築にこだわり、近代建築に流れなかったため、そこまでの歴史を描いてきたようだ。それが老舗として守り続けなければいけない面であり、過去歴史のある企業が淘汰される背景はむやみに選択した多角化が原因でもある。
最終的に金剛組が最終的に他の資本に渡ったのも、創業の理念から離れていったことが大きな理由であるようだし・・・。大きな声では言えないが、銀行が足を引っ張るケースも多いみたい。老舗だから大丈夫とお金は貸すようだけど。それではちょっとね・・・(汗)。
結果的にファミリーに限らず企業が存続する要因は地元地域との関係性であり、顧客との関係性であり、技術・技能の維持であり、後継者育成である。他にも脇役の存在もあるが、国内に限らずヨーロッパのようなファミリー大国も同様のことが言えるようだ。聞けば聞くほど大変な世界だと思えてくる・・・。
昨日の研修はガバナンスが中心。その前にあまりに天気が良かったので、一人寂しく皇居を走ってみたり・・・。
こんな標識が今はずらっと並んでるんですね・・・。
老舗企業を学びながら繁栄と衰退を知ることとなったのでした。
今日も一日真剣に学びます。途中で眠くなってしまうかもしれませんが・・・(苦笑)
2014年5月23日
星野佳路と考えるファミリービジネスマネジメント
星野佳路と考えるファミリービジネスマネジメント 1 継ぐべきか、継がざるべきか (2014/02/06) 中沢 康彦 |
僕の今年の課題の一つにファミリービジネスについて学習することがある。僕がその対象であるわけではないが、自分を取り巻く環境にはこのことが語られることは多い。
以前はファミリビジネスーに関して軽んじてみていたが、知れば知るほど奥の深いものと感じるようになった。
本書では星野リゾート社長の星野佳路氏が様々な立場から事業(家業)を引き継いだ経営者と対談形式で書かれている。一般的にファミリーによる事業継承は3つだと言われるようだ。
①一貫して「継ぐ」ことを意識。
②卒業時に「継ぐ」ことを決める。
③「継がない」から「継ぐ」に転じるケース。
大きく分けるとこのように分類される。
理想は①のように物心ついた時から意識しているパターンかもしれないが、今の時代、そんなケースは少ないようだ。むしろ③のように違う道を選択しながら結局戻ってくるケースが多い。
僕の周りにも全く異なる業界で仕事をされていながら、最終的には親の意志を自分の意志に変えて引き継いでいる方も目立つ。そこにはサラリーマンでは絶対にわからない覚悟がある。
世間には僕みたいにサラリーマンからトップになる珍しいケースもあり、それにはそれなりの覚悟も必要なのだが、その覚悟はまだ甘いのかもしれない。全然違う階段を登っている。
僕のような場合は共に働く仲間は納得し賛同してもらいやすいが、ファミリーの場合はお手並み拝見とある種冷めた目で見られる場合も多いだろう。それも口には出さず態度だけで眺めているケースもあるはずだ。
いくら権力を保持していてもその権力は場合によっては仇となってしまうだろうし・・・。
星野氏は自らの経験を踏まえ、継ぐべきか、継がざるべきかという判断を迫られた場合、明確に「継ぐべき」と断言している。それが企業としての成長や存続に繋がりやすい根拠を示しながら断言しているのだ。
ここに登場する方は数少ない事例に過ぎない。ひとつのドラマに過ぎない。僕がまだまだ知らなければならないドラマも沢山あるように思う。
そのためにもっと深く学ばなければならないことも多いようだ。
2014年5月22日
「誇りを胸に!」となるといいなあ~
以前のブログで「名大社way7つの約束」のことは書いた。
このようなクレドは掲げるだけでは意味がない。一人ひとりが行動指針として身体に染み込ませなければならない。僕が大声で全員の前で叫んだところで煙たがられるだけ(笑)。
よくあるケースだが、そのクレドをカードにし、常に携帯できるようにした。どんな時でも確認できる環境を作る。名大社はちっぽけな会社ではあるが、個人情報保護の観点から社内では社員証をしなければならないので、IDケースは必須。IDケースにそのカードを収める。
これまでは市販されているどこにでもある安価なIDケースだったが、今回のカードを携帯することをキッカケに一新することにした。
それがこれ。
土屋鞄さんのIDケース。かなり見栄を張ってみた(笑)。
名大社女子はアジールIDケース。名大社男子はアルマスIDケース。色も自分の好みを選んでもらった。当初、名大社男子もお洒落なアジールに仕様かと思ったが、ノッポ社員が首から掛けるとどうも違和感が・・・。そのため男子はシンプルなアルマスに変更。
IDケースを一気に注文する愚かな会社はないのだろう。土屋鞄さんの名古屋店には在庫がなく、他店や倉庫から取り寄せてもらうことになった。物によっては在庫自体なかったが、何とか昨日、全員分を揃えることができた。土屋鞄さん、お手数お掛けしました。
背面にはポケットがあるので、ここにクレドを収める。なかなかいいではないか・・・。
このIDケースを掛けることで、常に会社や自分に誇りを持ってもらいたい。どんな場所に出ていっても誇りを持った存在になってもらいたい。これは僕の自分勝手な願いでしかないが、そんな意味も込め、今回は奮発してこのIDケースを使う。
「誇りを胸に!」今日からこのIDケースでスタート。
僕の48歳の誕生日に合わせたわけではないが(笑)、素晴らしい会社にしていきましょう!