僕は小さい頃から、父親と親しい方にこんなことをよく言われた。
「お父さんは立派な人だから、テッちゃんも頑張りなさいね。」
大きなお世話だと感じていた。
口には出さなかったが、「アンタは頑張ってるのか?」と思っていた(苦笑)。
それだけ周りは父のことを評価していた。
信頼の厚い人だった。
仕事以外にも地域のために貢献していた。
僕が26歳の時に統計調査の実績が認められ藍綬褒章を授与された。
その11年後には瑞宝単光賞も頂いた。
それは今も実家に飾ってある。
この賞は父にとって大きな財産であり誇りであろう。
しかし、それを自慢げに喋ったり、ひけらかすような人ではなかった。
今は残念でならないが、僕は父親と人生のことや仕事の話はほとんどしたことがない。
それがないまま、逝ってしまった。
今更、後悔しても何もならないが、そう思った時には口を利けない状態だった。
昨年の盆明けに倒れ、半年間の入院生活をし亡くなった。
お見舞いに行った時も気の利いた言葉は掛けてやれなかった。
親不孝な長男だったと思う。
僕は父親の背中は見てきたが、多くのことは語らず仕舞いでその関係を終えた。
父も自分の父を早くに亡くしているため、僕への接し方を戸惑っていたのかもしれない。
僕は不思議と父親に叱られた経験がほとんどない。
一方、弟や妹はかなり父から叱られていたようだ。
特に弟は厳しい父親像を描いていたのだろうが、僕にとっては物静かで穏やかな父だった。
僕の将来についても何ひとつ言わなかった。
本当は実家で仕事をして欲しかったと思うし、就職は農協あたりが希望だったはず。
期待を裏切ったのは確か。
しかし、僕の選択に文句ひとつ言わなかった。
その点でも親不孝なのかもしれない。
そして、何の親孝行もできないまま、逝かせてしまった。
今の住まいから車で1時間半も掛からないのに、頻繁に顔を出すこともなかった。
結婚した頃は月1度は顔を出していたが、徐々に減っていった。
それでも僕の家族のことは気にしてくれていた。
死後、身の回りのものを整理していると父の日記を兼ねた手帳がでてきた。
そこには父らしく、天候のことや農作物のことが多く書かれていた。
それと同じだけ子供、孫のことも書かれていた。
家族で遊びに行き、一緒に食事をした時のことなど、克明に書いてあった。
一年ちょっと前の手帳には僕の息子のことも書かれていた。
「りんくんが野球部のキャプテンに選ばれた。みんなの信頼も厚いようだ。」
そんなことが書いてあった。
その時は何気ない会話をしただけ。
それは父にとっても嬉しく、記録に留めておいたのだろう。
僕らへの愛情を感じた文字だった。
四十九日の法事を終えた後、母親と妹に聞いた。
「俺はお父さんにとって、ダメな長男なんだろうか?」
妹が言った。
「そんなことないよ。
お父さんはお兄ちゃんが新聞に名前や記事が載った時には嬉しそうに切り抜いていたよ。
喜んでいたよ。」
母親は聞きながら頷いていた。
父親からは直接そんな話は一度も聞いたことがなかった。
しかし、その場面を思い浮かべるだけで、こみ上げるものがあった。
いかん、まだ、終わらない。
続きは来週。
ほとんど自己満足ブログになりそうだけど・・・(笑)。