先週は父親の四十九日の法要。
実家でご住職にお経を唱えてもらった。
会食後、喪主である僕からの挨拶。
自分では縁戚者に対して、素晴らしい挨拶ができたと思った。
席に戻ると嫁さんに一言、言われた。
「山ちゃん、長い!」
自分で思うことと相手が感じることは違う(笑)。
そんなもんだ。
ようやく少し落ち着いたので、父親のことを書いてみたい。
父 山田直司。2月16日、82歳の誕生日を目の前に亡くなった。
翌日の中日新聞岐阜版には死亡記事が掲載された。
地方版ではあるが、新聞に名が載ることで父親の偉大さを改めて実感した。
立派な父親だった。
小学校4年生時に戦争で父親を亡くし、7人兄弟の長男として山田家を支えた。
一番下の妹は父親の顔を知らない。母親(祖母)のお腹にいる時に戦死した。
10歳で一家の大黒柱。
岐阜の田舎で農業を中心に生計を立てていた。
高校へは行かず、
(実際は夜間高校に入学したようだが通う時間はなく、すぐ辞めたようだ。)
ずっと家族のために働いた。
兄弟も巣立ち、ある程度、家庭に余裕もできたのだろう。
30歳で母親と結婚。
1年後、僕が生まれた。
幼少の頃の父親の記憶は働いているところしかない。母親も同じ。
本当によく働く両親だった。
それは家族のため、家計を支えるためであったのは間違いない。
僕の相手はほとんど祖母がしてくれた。
そういえば6年前に祖母のことをブログにも書いていた。
父親に遊びに連れていってもらった記憶はほとんどない。
今、思えば、働かざるを得なかったのは事実だが、働くことが好きだったのだのだろう。
農業以外にもいろんなことを手掛けてきた。
僕が小さい頃は養豚もやっていた。
小学、中学生の頃、よく手伝わされたが、それが恥ずかしくて仕方なかった。
春には野菜苗、花苗を作り「山直農園」と称して販売し、冬にはしめ縄を作り販売した。
昨年までの会社のしめ縄は父親がこしらえてくれた。
手先が器用な人だった。
僕が中学生の時に焼肉屋を始めた。
当初は弟とスタートしたのだが事情があり、うちの両親が店を切り盛りしていた。
中学、高校の友人は僕のことを焼肉屋の息子と認識しているだろう。
高校時、大学時はいつも手伝いをしていた。
だから、僕は常に父親の背中を見ていた。
厳密にいえば、見せられていた。
それが理由だと思う。
僕はサラリーマンになりたかった。
自営はほとんど休みがない。
子供を遊びに連れていくこともできない。
そんな印象が強かったので、僕はサラリーマンになることを希望した。
しかし、結果だけ見れば、サラリーマンでは物足りなかったのだろう。
そのあたりは父親の血を引き継いでいるのかもしれない。
こんなふうに書くと父親はいろんなことに手を出している。
聞くところによると他の事業にも手を出そうとしたこともあったようだが、
リスクが大きく止めたようだ。
告別式の挨拶でも言わせてもらったが、父は多角経営をする個人事業家だった。
一度も会社に勤めたことはない。
誰かの下で働いたことはなかった。
それでもずっと働いていた。
それは一生涯のこと。
昨年の夏に入院するまで、ずっとだった。
足が不自由になっても働くことを止めなかった。
いかん、とてもブログが終わりそうにない。
続きは来週・・・。