この盆休みは亡父の初盆ということもあり、お寺でお経を上げてもらった。
父親が亡くなり昨日でちょうど半年。
月日の経過の早やさに驚いてしまうが、
その存在の大きさは忘れてはいけない。

この法要の場で住職からありがたい話があった。
人はいつ「一人前」になれるかという内容。
住職は自らの経験を語られた。

成人式を迎えた時に一人前になれたかというとそうではない。
社会人となり働き始めた時にも一人前なれたわけではない。
結婚した時や子供が生まれた時に一人前になれるはずだと思われたようだが、
一人前になれたという自覚はなかった。

では、どんな時に一人前と感じたかというと親を亡くした時だという。
親の存在を亡くし、すべて自分が任される責任になった時、
初めて一人前になったと感じられたそうだ。

それは一家の主ということだけではない。
親の存在に感謝し、その意志を受け継ぎ生きていくことで
初めて一人前という感覚が芽生えたようだ。
住職は自嘲気味に
「遅すぎるかもしれないが、自分がその時に初めて一人前になれた。」
と言われた。

それは住職の立場が言わせている面もあるとは思う。
しかし、ここでいう一人前は自立し生きていくことだけではない。
先祖や親の存在に感謝し、どんな生き方をしてきたのか、
どんな考えをしてきたのかを理解し、受け継ぐべきは受け継ぐ。
そして、想いを胸にこれからの生活を築き上げていく。
そこで初めて一人前になれるということなのであろう。
住職からそこまでの説明はなかったが、僕なりに解釈するとそういうこと。

果たして僕は一人前だろうか。
立場だけみれば一人前だが、必ずしもそうとは言えない。

日々の生活の中で父親や先祖の存在を意識しているか。
裏切る行為をしていないか。
それを問われると一人前とは言い難い。

会社においても同様。
こちらも立場としては一人前。
一人前でなければ務まらないし、周りが不安に陥ってしまう。
しかし、どこまで、過去からの想いを引き継いで
未来を創っているか、将来を描いているか。

自分勝手に一人前になったと思い上がっているだけではないか。
目に見えない僕の先にいる方々はそんな僕に不安を抱いていないか。

住職の言葉はそんな自分へ自戒を促しているようにも感じられた。

一人前になるということ。
本物の一人前になるのはこれからの自分の行動次第。

この時期だからこそ、考えさせられた言葉だった。