当たり前だけど、自分には苦手のことがいっぱいある。
注目が集まることなどはダメだし、みんなと同じようなことは好きじゃなかったし、
何より集団行動は本当に嫌いだ。
昔から、学校は好きではなかったし、運動会や学園祭やグループ行動、旅行も、とても苦手だった。
そういう僕がまさかサラリーマンを続け、新卒で入社した会社で、
会社の将来を考えなくてはならないような立場になるとは思わなかった。
自分のことを1番に考えてきたのも事実だし、仕事の結果や過程が大事であって
働く態度とか姿勢とか、みんなとの協調性、そういうものは仕事とは関係ないと思っていた。
まわりからはずいぶん生意気に見えたかもしれないけど、実際は他人と協調性がないので
自分が回りに合わせることに一生懸命で、そういう態度でいきがっていたように感じる。
丸くなったのか、歳をとったのか、一番大きな変化は立場が変わったからだろうけど、
だいぶん考え方が変わってきた。
仕事ができるとか、結果が出ているとか、正しい考え方とか、もちろん大事だ。
僕らが生きるために仕事をするし、会社はあるし、組織は作られ、朝礼も、会議もある。
ただ機能や目的感だけでは、当たり前に機能している組織も集団も、会議も飲み会も、
成績表彰も社員旅行も、なんの意味があるのかには答えられない気がする。
「より価値(社会性)のある仕事、楽しい仕事、やりがいのある仕事をやろう」
余計な雑念を振り払って、自分の心と身体性に問えば必ずある種のポジティブな意志に気が付く。
そういう意志をもって(気が付いて)仕事をする個人や集団しか、
結局朝礼も、会議も、表彰も形式化し、無意味になってしまうだろう。
あわてて誤解が無いようにいうけれど、
主観的な考え方だけで、全ての客観的な事実に意味づけがされるわけではない。
単なる幻想や思い込みの話をしたいわけでは無い。
だけど、客観的な事実を、第三者のような立場で、そこに内在する意味を分解して探し回ったところで、
いくら勉強しても、知識をつけても、他社の事例を持ってきても、
自社にとって良いものになるとは到底思えないのだ。
客観的な領域(システム、機能性など)は、主観的な固有の意志がなくては、
そこで働く人にとって意味を持たないだろう。
世界の意味付けは、結局全部自分の意志をもって客観的な事実を見ることだと思うので
だからせっかくのこの世界に、幸せな意味を持ちたいと願う。
以上高井でした。