こんにちは、安田です。
最近映画の話が多かったので、最近読んでいる本の話をしようと思います。映画が一番の趣味なら、読書は第二の趣味です!
W-J.オング著『声の文化と文字の文化』(藤原書店)。
(ブレているように見えるのは、こういうデザインです。笑)
声の文化とは、文字誕生以前の伝達・共有法を指します。
つまり、広場で集まった聴衆に対し、演説をする。
話し手は、相手の反応を見ながら話しをする。
聞き手は納得いかなければ反論するし、話し手はさらにそれに対して反論をする。
お互いに影響を及ぼし合う、とても有機的で人間的な関わり方です。
それに対して文字の文化は、文章や書籍が普及した後の世界に存在します。
声の文化が「その場にいる人たちの納得感」をとにかく重視するのに対して、文字の文化は普遍性を大事にします。
つまり、”誰が見ても納得できる”ための論理的な構造づくりです。
もし「この話のポイントは3つあります。一つは〇〇で、内容は□□です。想定される反論として△△が唱えた××という論がありますが、これは●●を前提にするとこの観点から間違っていて……次に……」なんて口頭で話したら、最初のほうの話はだれも覚えていません。が、文章であればこうした精密な論理的構造を構築しても、人々はそれを見て、しっかり理解し、それをもとに考えることができます。
思考が精密になっていきます。
ところが、文章で気になることがあったとしても、読み手がいくら文章に対して語り掛けても反論は来ません。その場での対話は不可能なのです。
これをプラトンは非人間的だと非難しました(論文に書いてしまったあたりからむしろ彼の危機感を感じます)。
ただ、この話はおそらく「どっちがいい」という話ではありません。
一度論理的に書き始めると、話し方も論理的構造を意識したものに変わってきます。
東欧にいまだ存在する吟遊詩人たちのなかで、優秀な方々はみな、文字をかけないのだそうです。
かえって目の前の人に対する意識、自分の身の周りに対するセンスが非常に長けているのではないか、と。
例えば、[ハンマー・丸太・のこぎり・手斧]から仲間外れを選んでくださいと言われた場合、彼らは例外なく「ハンマー」を選ぶのだそうです。
「丸太」を選んだ方は「道具(人工物)」と「木(自然物)」という抽象的なカテゴリー分けをしているのだと思いますが、
彼らは「自分はこれをどう使うか」にフォーカスしている。
どちらが良い、悪いではないというのです。
それぞれ長所短所の問題で、現実的には「使い分け」と「バランス」の問題だと思います。
状況と相手に応じてバランスよく使い分ければいいことです。
ちなみに、大学院で残る論文の「口頭試問」は、筆者曰く「声の文化」の名残なんだそうです。
大学の先生たちは論文書くのが仕事で完全に「文字の文化」じゃないかと思っていましたが、これは伝統なんですね。
ただ、文を読むこと、本を読むことには別な良いこともあります。
メアリアン・ウルフ著『プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』(インターシフト)
たしかこの本に書いてあったと思うのですが、いかんせんどういうわけか手元にありませんでして記憶曖昧ですが…
それは「安全に他人の経験や思考を追体験できる」ということ。
ともすれば自分で考えないことにつながる危険もありますが、知らない分野や違う価値観を持つ人がどういうことを考えているのか、どういう体験をしてきたのか、自宅にいながら触れることができます。
例えば…打越正行著『ヤンキーと地元』(筑摩書房)。
ヤンキーのことを自分で知ろうなんて、僕には怖くて絶対できませんが(笑)、そういう研究をした人がいるので安全に読めます。
どうしても沖縄の若者の研究をしたかった社会学者が、
暴走族のパシりから始めて、一緒に遊び歩き、建設現場で働き…と仲良くなって間近に観察した記録です。
自分では全く想像もできない、違う世界が存在するのだと実感しました。
また、先日は今上陛下の著書を読みました(即位前後にはアマゾンの地理学?分野でNo.1になって、品薄になっていました)。
↓国家元首ではなく完全に学者なプロフィールですが。笑
「水」が専門の陛下ですが、本書ではアマゾンの科学、瀬戸内の経済史、東日本の交通史、ロンドンの水運史、津波の対策などなど縦横無尽に駆け巡って様々な話題に触れています。
基本は講演録ですのでとても読みやすい語り口で書かれていますが、自分の見ている視点とは全く異なる視点から、世界を覗くことができる。
好奇心が刺激されますし、何よりも「自分の知らない世界がまだまだたくさんある」ことを知ります。
そして、書物を読むことは、「知らない世界を自分なりに整理して捉える(多少なりとも見えるようにする)」鍛錬になるのではないかと思います。
ではまた。