二回目にして、なにを書こうかな?状態の高井です。
書きたいことしか書きたくない人なので、こういう無理やりブログはホント困ります。
(嘘です。頑張ります!)
ネタに困り果てて、しょうがないので今日は最近みた映画の雑感を。
といっても不精な僕は、最近の映画は殆どHuluばかり。
いわゆるパソコンで配信される映画。映画館じゃありません。
こんなにパソコンやタブレッドばかりで映画見ていたら多分映画自身の価値が、変容してしまうんじゃないかと思うこの頃です。
『クラッシュ』1996年アメリカ映画
「ミリオンダラー・ベイビー」の脚本を手掛けたポール・ハギスの初監督作となる群像ドラマ。 ロサンゼルスで紡がれていくさまざまな人種、境遇の人々の物語を鮮烈に描き、第78回 (2005年) アカデミー賞にて作品賞、脚本賞、編集賞の3部門を受賞。―ロサンゼルス。ハイウェイで一件の自動車事故が起きた。日常的に起きる事故。しかしその“衝突”の向こうには、誰もが抱える“感情”の爆発が待っていた…。「Huluよりコメント引用」
なんだか面白そうなタイトルでカーチェイスもの?と思って見てみたらぜんぜん違う。
これがめっぽう重い、辛い映画だった。
個人的気分もあって、見ていて半分ぐらいまでは苦痛だった。
すこぶる簡単に言うと『クラッシュ』とは「人間のぶつかりあい」の意味だ。
中国人、イラン人、アラブ人、黒人、白人などなど、とにかく多種多様な人種が混在するアメリカでの人の衝突をテーマにしている。
それは主に「偏見」を根拠に、「怒り」に媒介され、「悲劇」を誘発する。
これは強烈なメッセージだ。このパターンをこの映画は執拗に繰り返す。
むろんそこはアメリカ映画だ。「悲劇」を回避する「救い」がご都合主義的にたくさん散りばめられてはいる。終わり方もハッピーエンドに近い。
ただあまりにも扱っているテーマが深刻で、救済が不自然で仕方ないのが致命的(僕には、ですが) 見ていて「そうじゃないだろう」っていう現実がちらついて仕方がない。
しかし、むろんいいところもある。
人種偏見に満ちた警官が、ある状況化でセクハラまでした黒人女性を命に懸けて救出をする。
どう解釈してよいかわからないようなこの展開。
しかしこの正義でもない白人警官が、自分の命を顧みず救済しようとするシーンはなぜか、なかなか衝撃的で感動的だ。
クラッシュにある偏見=怒り=悲劇の連鎖は、そのパターン化の執拗な繰り返しで面白い事実を明らかにしている。
これは人種の問題だけではない。極論すれば貧困とか、教育とかの社会の問題でもない。
他者どうしのぶつかり合い(クラッシュ)問題なのだと。
人間同士の共有や、共感、愛情の素晴らしさ!みたいな恋愛映画はたくさんある。
しかし共感しあわない、同質性の全くない「個人」がぶつかった時の予想不可能なものの集積。
例えば人種差別な白人警官とセクハラ被害の合った黒人女性との出会い!
これこそがもしかしたら人間愛?。
それは肯定するべきなの?っていう疑問で終わった感じだ。
この映画の冒頭とラストでいう黒人署長の言葉がなかなか秀逸。
人はぶつかり合うことで何かを実感したいんだ
ってところ。かなり納得した。
交通事故も愛、罵声も愛、けんかも愛、戦争も愛。
それならテポドンも愛情表現の現われなのかな~