こんにちは、高井です。
僕の最近の悩みの一つは、6歳の息子が夜なかなか寝つかないことだ。
21時を目安に、無理やり布団に入れて電気を消すのだが(当然彼は抵抗するのだが)
どうもまだまだ体力が有り余っているらしく、暗闇の中でも気が付くともぞもぞしながら勝手に遊んでいる。
早く寝ないと、彼は次の日の朝は起きれないし、なにより僕の貴重な一人の夜の時間が少なくなる。
そんな時は、諦めて電気をつけて短い絵本を読んで聞かせる。
そうすると彼は静かに聞きながら、次第にゆっくりと眠りにつく。
本は一人で読むものだと思っていたが、二人で読む面白さもあると、彼に読み聞かせる様になってから初めて知った。
僕のお気に入りの絵本は『100万回生きたねこ』(佐野洋子さんの1977年の作品)
残念ながら彼にはこの本はあんまりおもしろくないらしいので最近は出番が殆ど無い。
鉄道ものか、プーさんか、漫画みたいな本がお好みらしい。(だいたい親が読ませたい本は、子供にはウケが悪いものらしい)
でも僕はこの『100万回生きたねこ』が大好きで、できたら息子がいつか好きになったらうれしいなぁ~って思っている。
『100万回生きたねこ』を初めて読んだのは、確か小学生の頃の図書館でだったと思う。
その頃は内容は対して面白くも感じてもなく、意味もわからなかった。
ただ、大好きな白いネコが死んた時の、100万回生きた主人公のトラ猫の泣いているこの挿絵が、とっても印象的で強く記憶に残った。
その挿絵は大きく喉の奥まで見えそうなほど開けたトラ猫の口から、悲しみが音になって溢れて、その叫びが聞こえてくるようでいたたまれない気持ちになったのをよく覚えている。
『100万回生きたねこ』は、100万回死んで、100万回生きて、その後、愛する白いネコに出会い、その白いネコの死を受け止めたあと、最後に本当に死んでしまったトラ猫のお話。
僕はこの絵本に三回出会っている。
最初はさっき書いた小学生の頃。
そして二回めは、大学生の頃。
確かその頃付き合っていた彼女の本棚で見つけて、たまたま読み返して改めてすごく気に入って、自分で本屋で買った覚えがある。
その頃は、白ネコの死を悲しむトラ猫の挿絵よりも、100万回の生死をくぐった経験を凌駕する、白ネコとの恋愛に感動して、
「100万回の生死の経験よりも、運命の女との一回だけの恋愛のほうが価値がある!」
なんて恥ずかしいことを居酒屋で言って、この絵本を友達に薦めていた覚えがある。
いま見ても、ネコたちが集まっているこの挿絵の、トラ猫の満足そうなドヤ顔?が何だか 笑える。
そしてこの絵本も付き合っていた彼女とお別れする時、その思い出一緒にどこかにいってしまい(多分誰かにあげてしまった)自分の記憶から完全に消してしまっていた。
そして今度は3回目。
つい半年ぐらい前に、偶然義理の母がうちの息子のために買ってきたこの絵本を改めて読んでみて、また違う新鮮さと驚きを感じた。
100万回の生死を重ねていた頃のトラ猫は、いわば認識者として生きる。
あらゆる経験を重ね、様々なこと知るが、実践者としての行為は何もない。彼の人生はすべて他の人のためにある。
いわば生き死にも、死なない猫にとっては認識を深めるだけでしかない。しかし、どれだけ認識が深まろうとも、幸せにはなれない。どれだけ飼い主に愛されようが、それに答えること(実践)ができないからだ。
そんな彼でも、白いねこに恋した瞬間、認識者ではなく実践者としての生を生き始める。
恋愛はこのトラ猫から不死を奪って、限られた生にすることで、幸せとそれを失う悲しみを与えた。でもそれは大きな意味で生命の力として、肯定すべきことに感じられる。
最後のページで
「ねこは もうけっして 生きかえりませんでした」の文章と猫のいなくなった風景の挿絵が妙に清々しく、スッキリと感じるのはこの絵本が本当に良い絵本だからだと思う。
僕はこの本に3回出会った。
もしかしたら4回目もあるかもしれない。
たぶん本は、読むもの個人的な記憶と結びついて、まるで何かを補うように、完成するのかもしれない。
ある一冊の読書体験が、体の記憶に深くまとわりついて、時々どこからか現れ、僕に何かを教えてくれる。
良い本には、必ず、読む側への問が隠れている。