アラフォーの丸の内チルドレンの臼井です。
そんな丸の内ライフも今日含めてあと2日(引っ越し立ち会うミズタニ君は
4日あるわ!って言うかもしれませんが・・・)
僕は2014年4月入社なので、2年7カ月しかいませんが、会社として
6年程度いたことになるようです。
僕のオフィス移転歴は、錦→栄→伏見→名駅(西区)→博多駅前→福岡天神→伏見→
北区楠→丸の内なので、次で11回目です。
これってやはり多いのでしょうか。
過去をちょっと思い出しセンチメンタルな気分にするのも秋の仕業でしょう。
秋と言えばいろんな秋がありますが、ウスイと言えばスポートの秋!と思うでしょうが
今回は芸術の秋のお話です。(グランパスについては11月にレポートします!)
瀬戸市に引っ越して、家から徒歩数分のところに瀬戸美術館がありまして。
代休を利用して行ってきました。
「明治ニッポンの天才陶芸家 没後100年 宮川香山」(11月27日まで)
宮川香山・・・。当然知りませんでした。中国語で「不知道」ですね。
実際ご覧いただければ作品が素晴らしいのは体感できますが
それよりも彼の生き方に学ばされました。
京都の陶工の家に生まれ、幕府や、藩など武家から購入してもらうことを生業にしていましたが、
26歳の時に江戸幕府がなくなり武家社会が終焉したことで顧客を失うことになります。
そんな時代の大きな変化に飲み込まれ職を失うもの多かった明治初期に、彼は変化をチャンスととらえ、
29歳の時に京都から外国貿易で栄える横浜へ拠点を移します。
当時輸出用に金を使う豪華な薩摩焼が外国人に受けがよく高値で売れていたこともあり
横浜で薩摩焼の手法を取り入れた陶磁器生産に乗り出す。
薩摩焼は金で表面を盛り上げる手法なので、製作費が高いという課題がありました。
そこで彼は表面を盛り上げる薩摩焼の手法を活かし
「高浮彫(たかうきぼり)」という手法を編み出しました。
*高浮彫の作品です。(瀬戸市美術館にて撮影OKの作品です。)
これが大ヒットし、35歳の時にフィラデルフィア万国博覧会に出展し絶賛され、
同時に出展していたロイヤルコペンハーゲンにも影響を与えたと言われています。
宮川の京都時代からの窯の名前の真葛は「MAKUZU」の愛称で世界ブランドになった。
今でいうところのマーケティングに長けていたのでしょう。
ここで彼は外国人受けばかり狙うのは面白くないと、風神雷神図屏風を絵に取り入れたり
日本の伝統的な絵や、中国の陶磁器を取り入れたりしたものを作るなど、
伝統と欧米文化の融合に取り組み、高い評価を得ています。
(こちらも展示しておりますので是非瀬戸美術館へ)
香山の作品の多くは輸出され海外にあったものが多く、
田邊哲人という方がコレクションとして集め今見ることができるようになったくらいである。
ただこの高浮彫は見た目通り、製造はとても難しく、生産効率が悪かったようです
ここで宮川香山は中国清朝の磁器を研究し、作風を変え磁器の生産を成功させ、陶磁器、
磁器でMAKUZUブランドの隆盛の礎を築いた。
これは推測だが、京都にあった同業からすれば伝統から外れた宮川香山を批判するものをいただろうが、
時代の流れ、顧客の要望に応えるマーケットインの視点で伝統を活かしつつ、過去の手法にとらわれず、
変化できたことが彼のすごさだと思う。
(パンフレットの裏側ですが、京都時代、横浜陶磁器時代、横浜磁器時代のおおよそ3つに分かれて展示されてます)
一人の陶芸家が一生で、陶器、陶磁器、磁器と3つの変化をするのはすごい事だと思う。
今僕らのビジネスも大きな変化の入り口に来ていると思う。
人材の採用手法が大きく変わりつつある。
広告業界の変化とも連動するが、不特定多数を集めるという事が難しくなってきている中で
、個へどう訴えていくかが重要になりつつある。
その変化に対応する一方で人対人というアナログな部分の精度をどうあげるかも重要になってきていると思う。
伝統芸ではないが、面と向かって話をするキャリアカウンセリングの手法の練度を上げつつ、
市場で選んでもらうために、変化に対応し、自分自身も変化していかないと
いけないと改めて思わせてもらいました。
こういう休日もたまには悪くない。
しかしなぜ真葛(MAKUZU)は今ないのかなと調べたら、
横浜大空襲で三代目以下職人11人が窯とともに亡くなられたらしく、
疎開していた弟さんが後を継がれましたが
職人もいないことが理由かはわかりませんが、かつての勢いは取り戻せず
4代目が亡くなって廃業となってしまったそうです。
残念
そして今回も長文ですが 秋の夜長に如何でしょうか?
これもたぶん秋の仕業です。