こんにちは、高井です。

あったかくなってきましたね。

だいぶん過ごしやすくていい季節で、私は大好きです。幸いに花粉関係ないし。

今日は名大社の仕事の話を、徒然に書きます。

4月になって新しい年度が始まり、名大社もいろいろと新しいことが始まってきています。

新入社員も入り、人事も少し一新し、目標も各自色々と掲げられ活動も始めました。

名大社の商品もたくさんリュニューアル計画が進行しています。

(おかげでいろいろと忙しくて困っていますが…)

 

変化の春ですね。その分、今は産みの苦しみというか、色々なことがまだ準備段階で地味で終わりのないことに感じます。

始まりの予感というか期待みたいなこと。

私の周りにはその変化(組織も事業体でも商品サービスでも)はたくさんあってワクワクしています。楽しみなんです。

でも直ぐには成果を実感できないし、正直様々な変化もそれが本当に正しいことでしょうか?と疑問に思うことがたくさんあります。

変えることのリスク、それとも変えない方がリスクが高い?

どちらがいいかわからない時、私は間違いなく変える方を選択するべきだと思います。

白黒はっきりとわかるような改善事項は、すでに実行していたり、以前からなんども取り組んでいるようなことが多いのです。

それでも進まないし停滞しているように見えて、行き詰まりを感じている仕事がたくさんあります。

そこで私の立場として、何もしないわけにはいかないし、その対策が大した成果を産まないことをわかっているのに

同じ改善事項で仕事を誤魔化していくことで良しとしていくわけにはいかないのです。

(というかそれでは仕事のモチベーションが上がらない。面白くならないのです。)

そして何をやっていいかわからない時、どんな改善案も考えられない時、それでもなんにも出ない時、

仕事の「捨てる」「ヤメる」「入れ替える」を考えてみます。

いわば仕事の「新陳代謝」です。

捨てる・ヤメる・入れ替えるは、いわば、捨てれない・ヤメれない・入れ替えれないことを考えることだと思います。

その仕事は何のためにあるのか?

古いけれど、良いもの、意味のあるものはたくさんあります。

古いから悪い訳でもなく、やらされている仕事が悪い訳でもなく、

その仕事が現状、無価値・無意味・陳腐になっていないか?

その問いを問い続けることが一番重要に感じています。

(イノベーションという言葉はこの延長線上にあります)

先日、名大社の2次面接で仕事における成長とはどういうことか?を学生に聞かれましたが、

通常、成長とはできないことができるようになることだと思います。

しかし私は、成長とは変化。成長とは変化に対応することだと感じています。

自分自身がどんどん技量が上がり、経験を積んで、正しくいろんなことができるようになったとして、

それを人は成長と言うでしょう。

短期的には正しいと思いますし、その意味で成長すべきだと思います。

しかし、状況は刻々と変化します。

変化しないことは、周りも自分も無いのです。

自分ができるようになったことでも状況が変わればやり方も変化すべきです。

学んだことも、成長したと思いやれるようになったことも、

時には状況に合わせて、全てを捨て去り全く新しく学ばなくてはならない時が必ずあります。

しかしできることに、学んだことに固執したらどうなるのでしょうか?

過去の成功体験に囚われ状況に対応できず、消えていく事例を今はたくさん思いつくでしょう。

仏教の基本思想に有名な「諸行無常」と言う言葉があります。

ウィキによれば、諸行無常とは

「この世の現実の存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、

一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう」by ウィキペディア

自分もそれを取り巻く世界も全ては変化します。

生も死もその流れの中では新陳代謝のようなもので、全て同じです。

「生滅は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。

生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。

この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。」by ウィキペディア

自分の仕事において、会社の取り組みにおいて、変わらないものに感じる時、

停滞と凡庸、そして終焉に向かっている仕事かもしれない。

私はそう考えている。