こんにちは、クロスメディア事業部の高井です。

すいません、またまた映画ネタです。

次は仕事について書きますので、哲さん、お許し下さい。

 

「バベル」2006

モロッコ、アメリカ、メキシコ、そして東京と、遠く離れた地域の人物たちのストーリーが交差する。バベルは『旧約聖書』にある町の名。人々は天まで届くバベルの塔を建てようとしたが神が人々に別々の言葉を話させるようにした。人々は統制がとれず、全世界に散っていった。これを背景に「言葉や心が通じない」世界における人間を描いた異色作。

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これすごいです。絶対万人受けしないです。

内容がすごい重いです。決して誰もHAPPYにはなりません。

まずストーリーはホント結局何が言いたいの?って感じで、そして何だろう。この映画「バベル」は観ながら、実に不快な気持ちが湧くのは。

救いの無い、意味の無い、自分に関心がない語りに永延とお付き合いした真夜中の長電話のような不愉快さが、後を引く。

けっして駄作ではないことを認めるだけに、そして数々の賞賛と、罵声の声をチラチラと耳にすれ、もっと違った方向性があったのではないかと思えてしまう。

しかし、ただのつまらない不快な映画とも何かが違う。

もちろん、ブラピ、ケントブランケッド、菊池、役所と言った俳優陣は素晴らしい。

菊池の存在感はいま見ても半端ない。

そして少年が人を撃ってしまった時。青年が検問を突破した時。彼女が全裸でわかって欲しかった時。

見終わったあとの、それぞれの場所・シーンの生々しさや重さは、僕のお正月の夢にまで出てくるぐらい(あんまり嬉しくないのですが)強烈な印象が残ってしまった。

 

一つのライフルを媒介に、ある関係性に突如ヒビが入り、再構築を迫られる。

「バベル」という表題が象徴する多民族的な価値・言葉・習慣の相違、または心の不確実性からくる、「恐れ、疑心、偏見、愚かさ、暴力、性」などを、この地球という平面に露にしてみせること。

それこそがこの映画のすべてではないだろうか?

我々は言語が伝わることを日々信頼しながら、それが伝わらない場面を日々実感している。

当たり前の感覚だ。肉親でさえも、どんなに気心が知れていても、どんなに愛し合っていても、どこかに分かり合えないものが、溶けきれない残滓としてあるものだ。

問題はそこからだ。

その人間同士の分かり合えなさ、通じなさは、実は分かり合えること、通じることを前提にしたイレギュラーな状態と、普通は考えている。

そう、人は容易に分かり合えることを前提にする。

しかし「バベル」で繰り広がる「恐れ、疑心、偏見、愚かさ、暴力、性」は、そういった楽観的な前提をあざ笑うかのように、延々と「言語や心が通じない世界」を描いてみせる。

まるでその世界が当然であるかのように。

それがリアルであるかのように。

これは、実は我々の生きていく経験としてみんなわかっているのかもしれない。

僕らはこのディスコミュニケーションの世界でどのような態度を取るべきなのか?

この映画は、そんな問いを観るものに強いて、不安にするのだ。

でも同時に大事なことを気づかせてもくれる。

僕らが手を握り合う理由。

誰かと抱き合う理由。

他人に優しくして、他人を気遣い、そして愛する理由を。

 

最後に役所広司と菊池凛子のラストシーンを見ながら、この心や言葉が通じない世界(バベル)では、「そうか分かり合う代わりに抱き合えばいいのだ」とマジで思ってしまった。

すいません。ちょっとロマンチック過ぎる落ちのないブログで失礼しました!