映画が公開されると、会社定時でダッシュして劇場に観に行った松本ほどの興味は僕にはない。
けれどAmazonプライムに「シン・エヴァンゲリオン」が入った途端、これは観るしかないだろう、と思ってお盆休みに観た。
それもだいぶん忘れていたから、プライムに入っているテレビシリーズ以外のエヴァ映画は全部見た。
実はエヴァは、もう25年ほど前だろうか?テレビシリーズがヒットして、自分が大学生の時に周りが熱狂していて、やたら知り合いが僕に進めて来たのを覚えている。
「絶対、高井さんは好きだから」とか「高井向きのアニメだよ」ってまわりに言われ、
テレビ版を後輩の家で全部一気見して、なんでこれが自分向きなんだろうと腹が立ったのを覚えている。
正直、大学生のその時以来エヴァは見ていない。
みんなが熱狂していれば尚更、自分にはこの終わりのないモノローグ的な物語は体質的に合わなかった。

テレビシリーズは前半部分はまだ面白く感じたけど後半は、自意識過剰の一人語り過ぎの主人公に辟易したのと、
意味ありげな人類保管計画、ゼーレ、ATフィールド、使徒などという言葉が説明されず、
結局なぜ戦っているのかわからないままの謎だけがそのままあり続ける。
最後に至っては、全部モノローグで「ありがとう」で終わる展開に、なんだこれは、っていう感じで拍子抜けした。
メディアや知り合いたちはエヴァに夢中で、エヴァ現象と呼ばれる騒ぎ方だったけど、僕は全然入り込めなかった。
でも今回映画で見直したとき、やっぱりこのエヴァは時代を先取りし、
セカイ系と呼ばれるような作品の始まりとして、確かに特徴的な作品だったと思えた。

過剰な一人語りと、自分と他人の二者関係などの問題が、なぜか社会的な状況や制度などの中間項をぶっ飛ばして、
世界の危機みたいなこととシンクロしていく展開は、少年の自意識過剰の感性として、確かこういう感じあったかな、と妙に懐かしく感じてしまった。
若い時の、自分自身を傷つけるほどやたら敏感になっていく感性、でも直接の外界を変えるほどの手段も力量もない無力感。もちろんこれは太宰やサリンジャーを今読んだら、同じような感じになるかもしれない。

『郵便的不安たち』で東浩紀は、
「最近の若い子は、すごく近いこととすごい遠いことしか分からない。恋愛か世界の終わりか、どちらにしか興味がない。恋愛問題や家族問題のようなきわめて身近な問題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とが、彼らの感覚では、ペタッとくっついてしまっている」『郵便的不安たち』は1999年の本だが、こういう感覚は、極めて今日的に思える。
そして現在の小説、音楽、アニメ、映画などのフィクションでより広く広がっているように見える。
(異世界モノの流行などはその典型に見える)
フィクションから社会という中間項が消えたとき、モノローグ(自意識)とセカイ(死と性の想像力)だけが切実な興味の対象となる。これはコロナ禍の人との距離感、情報化時代のSNSでは、極めて現代的な感性であって、やっぱりエヴァ模倣者には無いエヴァというオリジナルには一貫してある感性だ。
シン・エヴァの映画の中で、ハイテクのロボット、ミライ的な兵器やシステムが飛び交う中で、異常なほどの昭和的な街並みや暮らしを並べて見せたり、あの綾波レイに田植えをさせてみたり…一方でナウシカの巨神兵的なエヴァや、黙示録的な予言などのお約束の神話的世界。こんなノンリアリティの想像物をアーカイブのように並べて物語るこの映画を観て、
やっぱり庵野監督は日本という社会が産んだ、歪な天才なんだと思う。
シン・エヴァでは、主人公と父親の関係性が、世界の破滅と直結しているが、最後は父親を理解し、めでたく伝統的な物語通りに、父殺しを成し遂げ社会(日常)に復帰する。
シンジが少しイケメンになって成長した笑顔と、マリというメガネの女性と駅のプラットホームで仲良く話す日常で終わるのは象徴的に思えた。
インタビューではもうアニメはやらず、しばらく実写に専念すると言っていた庵野監督。
シン・ゴジラは良かった。災害に対する日本的な組織集団や官僚、政治、日本人的なものを描いた良作だったと思う。
これからシン・ウルトラマン、シン・仮面ライダーと公開が続く。期待しかない。
以上、高井でした。